人間の死後存続、あるいは死はもっぱら肉体上の手続きにすぎないという主張は、人類と同じほどに古い。そのひとつの流れは、創造主の善と公正に基づく神学の部類に入るだろう。もうひとつは人類学的と言えるかもしれないが、「消滅」という観念に対する人間の本能的な激しい嫌悪に基づき、そういう発達した強い情動は、現実になんらかの影響を持つに違いない、という仮定の上に立つ。
  
 私はどちらの主張も尊重するが、この本の中では強調しない。まったくのところ主張はしたくないのだ。私の論点全体は、経験という基盤と、労を惜しまないなら誰でも直接検証できる、事実の容認の上にあるのだから。私は「事実」という言葉が科学においていかに重いものであるか知っている。その上で、個人の人格の死後存続は私にとって実証された事実であると、ためらいなく断言する。
  
 私は人間の曖昧な能力の研究を通してこの信念に達した。しかし、これは正統派の科学者にはまだ認知されておらず、またどうやら神学者にも原則として認められないようだ。ゆえに、調査における私の一貫した忍耐と、結果に関する自信たっぷりの説得に、 時々いくらかの言い訳や弁明を添えることは差し支えないだろうし、たぶん義務でさえあると思う。
  
 ちなみに、タイトルの「Immortality 不死」という言葉は、 本来「我々の視野には、無限についてのどんな主張も入れられない」という意味で使われていたことが明らかになった。同じように、我々が確証を望みうるのはただ個人の死後存続についてのみである。
 人間の生命の連続性の明らかな裂け目、あるいは真の階梯は、墓と死の門のところに置かれている。もし我々がその厳しい経験を「生き延びる」ことができるなら、いつかもっと巨大な規模の断絶に出くわして敗れるということは、ほとんどありそうにない。もっとも、未来における遥かな冒険については、我々は何もわからないが。
  
 我々が持っているすべては、この物質的身体――薄明に横たわり、遠い未来には嫌でも顔合わせを要求する――を 離れたあとの、我々の個人的存続を証明する。その遠い未来はまさに、我々が目下無視しなければならない「明日」である。(訳注※マタイ福音書6:34『だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』)
 いまここで「十分」なのは、この現在の人生で我々ひとりひとりにとっての存在が終わるのではない、という知識である。さらにいえば、その知識を正しく用いることは、延々と続く奉仕の機会のはじまりなのだ。――それは永遠に増大する奉仕、我々の本質と調和した、それゆえに完璧な自由に等しい類の奉仕である。 In Ia sua volontade e nostra pace. (彼の意思の中にあることが我等の平和)

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