第2章 7つの主張

この最大の奇跡、それは御身が御身であり、
御身みずからの御業と世界の上に力を持つこと。
目に映るこの世はただ波踊る岸辺、その内なるかの真の世界より。

――テニスン

 前章末の主張をとりあげ、検討あるいは推敲に進もう。

主張1)まず、精神は肉体的組織から独立してふるまうことができるということ。
私は1883年頃、これをテレパシーの事実から確信するようになった。 テレパシーは、1876年の英国学術協会に受理された論文の中で、 ウィリアム・バレット卿によってすでに注意を喚起されていた。
 
 テレパシーとは、今や誰もが知っているように、眼や耳などの物質的な感覚組織を使わずに、 ひとつの生きた精神から他の精神へと、考えや画像や感覚を伝えるものである。 これには送信者と受信者(千里眼)の、ふたりの人間が必要になる。
 送信者が何かを考えたり、ある対象を見たり、頭の中で伝えたい考えを保つべく努力している間、 受信者は感覚的知覚から遮断されている。
 
 注意深く管理された状況下で、若干の人間が千里眼の能力を持っていることが判明した。 彼らは、しばらくの間じっとしていたのち、聴覚・視覚・触覚のいずれも使用せずに、 印象を得たり、送信者が見た対象を描いたりすることができたのである。
 
 この事実は多くの観察者によって決定的に立証され、 次に、数多くの説明不能な事例を解釈するために利用された。 それらの事例は、現在では、テレパシー能力の無意識的な利用であろうと考えられるものである。 強い感情的ストレスのもとで起こり、また本人の意識の有無を問わない。
 
 ある人が、離れたところにいる別の人から病気・危険・死などの印象を受け取る、といった数多くの伝説や、現代の主張がある。 それに対して、まさに、そうした事情に非常によく似た実験的テレパシーを当てはめることで、 迷信を排除して筋の通った詳細な説明ができるだろうと期待されたのである。
 
 こうした経験は、たいてい幻視、または幽姿の出現の形をとることはよく知られている。 そういう時の精神的印象は非常に強く鮮明なので、普通の人の精神の中に、 千里眼のように聴覚的・視覚的な幻を呼び出すほどであっても当然だと思われる。 そのため肉体的にではなく、精神的に言葉が聴こえたり幻影が見えたりするのだ。 通常の経路を通じてではなく、物質的な存在によるのでもなく、いわば精神的な再構成として。

 しかしながら、我々が一番重要な事例だという印象を持つのは、いわゆる正夢、真実を告げる幻である。 どこかよそで起きている事件と本当に一致したために、調査の後で、実証可能であることがわかったものだ。

 これは1886年の2巻本「Phantasms of the Living(生者の幻像)」の成果である。 この本はポドモア氏の協力を得て、マイヤースとガーニーによって慎重に編集された。 これによって、今も世界中で無数に起きている神秘的な出来事が、可能な限り合理的に説明されたのである。 テレパシーによって発見・認識された、精神的感応の事実に基づいて。
 
 敏感な千里眼が見る幻や、幽姿の出現は、これまではごく自然に、 なにか神秘的な現実の存在だとみなされてきた。 しかしそれは、鮮やかな「精神的印象」へと、合理的に格下げすることができたのである。 遠隔地にいて悩みや危険や死に臨む人が、無意識に発揮するテレパシーによって引き起こすものであると。

 その後、数多くの事例が、いわゆる「幻覚の国勢調査」で収集され、非常に慎重な、熟練した研究者たちによって吟味された。 これは1894年一杯まで実施された骨の折れる計画で、 率直に言って、幽霊は生者のものだけでなく、死者のものをも含んでいた。
 その中から、まず疑わしい事例はすべて排除され、次にすべての欠点が考慮され、 さらに、より常識的で提示可能な考え方の可能性はすべて認められた。
 その上で、これらの研究者たちの重い結論が、報告書の最後にこう要約された (S.P.R.Vol.X, p.394に収録)――

死に臨んでいる人の死と、幽姿の出現の間には、単なる偶然によるものではないつながりが存在する。 これは我々が、証明された事実として把握しているものである。 それについての含蓄に富む討議は、この論文では、――あるいは、ことによると疲弊したこの時代では――試みることができない。

 このすこぶる念入りな長い報告書は、ヘンリー・シジウィック教授夫妻とその他の者によって署名された。
 送信者から千里眼へのテレパシー仮説が、実際にこれらの体験の完全な説明であるかどうか、 私はあえて独断的に述べようとは思わない。たぶん他の補足的な説明もありうると思う。――他の作用因が。
 しかし、近親者同士のテレパシー仮説は、それがどう評価されようと、もっとも単純で合理的である。 他の言い方をすれば、確立した事実を評価するために定式化可能な、異常・超常現象の最小限の説明である。

 偉大な哲学者カントが、ひところ心霊的なテーマに強烈な関心を寄せたことを思い起こすのは興味深い。 後にその関心は弱まったとはいえ、彼は特にスウェーデンボルグに関連した1、2の驚くべき事例を調査したことさえあるのだ。 故ウィリアム・ウォレス教授はカントについてのエッセイの中で、幽姿の出現に関する彼の主観的な見解に注意を促し、 最後はカントからの引用で結んでいる。
 これはずっと後になって、マイヤースとガーニーの「生者の幻像」の中で示唆された、 テレパシーの解釈にはっきりと似通っている。 その中の、「そういった幻視は、原因はどうあれ事実と合致する」という、特に強調された事実は、 カントが傾倒した事実よりもっと重要性があるだろう。以下はウォレスとカントからの引用である。

――純粋な霊と、物質をまとった親族との間のコミュニケーションの可能性は、 抽象的な精神の概念や血族のイメージ――呼び覚まされた、感覚的な種類の類推や象徴的概念――同士の接続の確立による。 こういう結びつきは独特の気質の人々に見られる。千里眼はときに幽姿の出現に襲われる。 とはいえ、彼らが思うような霊的現象にではなく、想像上の幻影に――鈍感な人間の魂には気づかれない、 本物の霊による影響の代理としての映像に――襲われるのだ。
 こうして、亡くなった人の魂と純粋な霊は、もう我々の肉体的感覚に訴えたり、 物質をもって共同体に立ちまじることはできないとはいえ、 彼ら同様、偉大な精神的社会に属する人間の魂に対して、まだ行動できるのである。 魂が受けた刺激の印象は、空想の法則に従って結びついた形象でそれ自身を表現し、 それに適した幻の物体の顕現を幻視者の外側に作り出す。


 主張2――身体は道具である――は大体において主張1の結果、または主張1に従属する。 そして解剖学者と生理学者が頻繁に提出する主張に対抗し、反論を試みるものである。

 彼らの主張とは、「脳と精神はまったく同一であり、そのため脳への損傷はそれ自体、 精神への損傷と事実上一致し、ゆえに一方の破壊はもう片方の破壊をも意味する」というものだ。
 この仮説はおそらく唯物論的見解の基盤だと思われる。 そして明らかに、脳への外傷は精神的欠損との一致を含む、という一般的経験と調和する主張である。

 言うまでもなく、私はこれらの一般的観察事実はすべて完全に認める。 しかし私は、一般に我々の推論は、合理的なものを超えた事実から引き出し、示唆されたものだと言いたいのだ。 彼らによって本当に立証されたのは、道具がダメージを受けたとき、精神活動を表示する力もダメージを受ける、 ということがすべてである――それはただの常識だ。
 しかしこの紛れもない事実からだけでは、我々は精神に何が起きたのかについては、まったく演繹する権利を持たない。 「脳と精神は全く同じものだ」という根拠のない仮定なしには。

 もし脳が働くのをやめたら、我々は自然とコミュニケーションできなくなる。 機構の働きを通じての精神の表明も終わるのだ。 たとえば失語症は起こりうる。 もし言語中枢が傷ついたなら、もう言葉で思考を表現することができないのだ。 また、もし脳細胞、あるいはそれらをつなぐ繊維が、手か気管のどちらかの筋肉の活動で妨げられたら、 過去の出来事はもう記憶から引き出すことができない。
 
 しかし、その再生組織が機能することができないからといって、 記憶そのものが消し去られると言ってしまうのは、 我々が作る権利を与えられたどんな推論をも超えている。
 脳が単なる精神の道具ではなく、「脳は精神そのものである」という説を支持する者が、 本質的に不合理で、根拠のない、奇妙な仮説を作ろうとしてしまうのは避けられない。 彼らは、頭蓋の中の物質の塊が、越し方行く末を見、文学と美術の業を工夫し、偉大な詩を思いつき、 宇宙の機構を探求し、親しみや哀しみを感じ、行動の過程において開始し判断するために、 思考し、デザインすることができるというのである。 そして、言葉と結びついた感情――信仰、希望、愛を、当たり前に表示するだけでなく、本当に感じるというのだ。

 ところが実際は、脳は眼以上には「見る」ことさえもしないと認められて当然である。 眼と脳は「見る」ことを可能にする作業を通して、共に道具となる。 また耳は、我々が「聞く」という意味において、明白に肉体的な道具である。
 しかし確かに、見ることも聞くことも知性が行うのだ。 見るものと聞くものの意味を解釈し、絵画、詩、音楽から精神的印象と情動を引き出す。 ――精神的な感応は、物質の性質とはまるきり異質なのである。

 たとえば美の感覚は物質的粒子の集合によって刺激されるが、 物質的粒子の集合は、それ自身を賞賛することはできない。 一片の物質が生き生きと動いたとしても、それが何であれ、物質の自発的な動きなどではなく、 正しくも、ある一定の動きを導く能力――芸術の業の意匠、または科学的理論――によるものだと思われるのだ。
 
 物体の粒子は、それに対する機械的な力に完全に従属する。 粒子は独自になにかを始めたり逆らったりすることはなく、絶対に完全に従順である。 これは、非有機的なものとまったく同じ、有機的物体の原子の真実である。
 
 そして科学全体の傾向は、有機と非有機の間の物質的側面における識別をなくしてきた。 例外的な組織がどうふるまおうとも、 粒子それ自体は物理的・化学的な法則に完全に従順であって、 その粒子こそが生命的・精神的支配の主体であり、 それによって、生命と精神の現象を披露することができるのだ、という事実を強調するために。

 私は、ポーランドの哲学者ウィンセンティ・ルトスラフスキの「The World of Souls 魂の世界」の中に、 この論点の簡素な言い表し方を見つけた。 この本は1899年に書かれたようだが、英国では1924年まで刊行されなかったとはいえ、 ウィリアム・ジェームズの強力な推薦にもかかわらず、そうあるべきほどにはあまりよく知られていない。 その一節を引用する。

――思考と脳の関係を理解するには、脳は組織であると認めるだけで十分である。 我々が外部から受け取るすべての影響、作り出すすべての動き、特に言語動作を通じて。
 すべての証拠は、単にこれらの脳の機能を示す傾向がある。 そして思考と脳を賞賛する主張は、みな誤った類似を基盤としているのだ。その類似とは、 情動は心臓の動きに影響する…という理由から、心臓とすべての情動に言及するものである。 思考は、我々自身の精神的経験から、生理学的プロセスとしてではなく意識の動きとして知られている。 そして我々はそれを肉体的活動の観察によって確かめる根拠を持たない…。
 あなたがあなたとして意識するもの、それがあなたの魂である。それ以外にはない。 「私の身体」「私の脳」などと言うように「私の魂」と言ってしまうのは、言語のよくないアナロジーである。 事実あなたは魂なのだ。 だからまるで魂があなたとは違うものであるかのように「魂がある」とは言わないのが当然なのだ。


 主張3――我々の視野の外に去ったものが、存在しなくなったのではないという意味を持つ――は、 多くの馴染み深い現象によって明示できる。

 物質の不滅性は目に見えるものではない。 その事実は確認されねばならないし、科学的調査によって立証されねばならない。
 一般的な考えでは、燃えた物は破壊され、地面にこぼれたミルクは失われ、太陽の熱で蒸発した雲は存在しなくなる。 しかし今や誰もが、一片の物質を分散させることはできても、その粒子は破壊できないと知っている。 ちょうど、われわれの眼にはっきり見えていた雲が見えなくなっても、水蒸気として存在するように。 これについて、これ以上論じたり強調したりする必要はない。

 しかしこの容認は、個人の死後存続を妨げると言われるかもしれない。 見かけ上はそうだが、実はまったく違う。
 雲は個体性を持たない。 それは単に、たまたま光の熱線が我々の眼に見えるよう作用した粒子の集合であり、他の集合と同じく個性をもたない。
 群集は解散し、軍隊は解隊しうる。歴史的に彼らは集団的な存在であり、やがて散り散りになる。
 集団が持続する間、その存在の実体は集まることにあるのではなく、共同単位と呼ばれる精神的刺激の中にある。 群集のそれぞれの構成要素は自分の仕事に取り掛かるのであって、単なる配列には本質的なものや永続的なものは何もない。

 軍隊や艦隊は、たとえばロンドンやワシントンの政治家が考え、適当な将校を通じて伝達される命令に従う。 その集団の構成員は、我々の身体の粒子に似ている。 ある支配的機関によって組織され、彼らが解散するまでのしばらくの間、命令に従順である。
 命令し配列させていた支配的存在は、存在を止めた身体にはその居場所をもたない。 その身体は、それを通じて支配的存在が行動し、確かな効果を生み出す道具であった。 そして支配する力は、その補助的機構が放棄されたずっと後も、機能を持ち続けることができる。

 だが道具なしでは、支配する力は作用することができない。 神性でさえ、適切な手段を使わずには結果を引き起こすことはできないのだ。 精神的なものと肉体的なものは、頻繁に融合するように思われる。 簡単に言うと、神は作用因(代行者)を通して力を及ぼすということは必ず真である。 我々が自然の法則と呼ぶものは、神の作用因のいくつかに対する、我々の公式化と認識である。

 神学者は、天使と他の高位の存在は、作用因と伝達者たちの中にいると推測してきた。 そのいくつかのことがらは、人間によってのみ成し遂げられる、というのはよく知られた真実である。 人間は高位の力の道具なのだ。ちょうど人間が、それを通じて練習し、彼の能力を示す道具を必要とするように。
 そして願わくは、道具の製作者が、その道具が匠によってよき目的に使われることを喜ぶが如く、 いと高き者が、能力と才能の慈善に満ちた使用を喜ばれんことを。ジョージ・エリオットが言うように――

その手と顎の間にわがヴァイオリンを支えるなら
どんな名演奏家も喜ぶであろう、
ストラディバリが存在し、ヴァイオリンを制作したこと、
すべて名器たらしめたことを。
神が技を与え給うた故に
私は彼らに奏でるべき道具を与えた、
神は私をして、御業を助けるべく使われた…
アントニオなくして、神はアントニオ・ストラディバリのヴァイオリンはお作りになれなかったのだ。


 主張4――個人はなにか永続的なものの一時的な受肉である――は、より困難な個人的アイデンティティの問題に関わる。
 個人の人格とはなにを意味するのだろう? その個人は常に存在したと思う必要があるだろうか?  あるものが継続するというのなら、前世は必要か?
 総じて、その方向に考えが傾く者がいるとはいえ、これは必要ではないことがわかるかもしれない。 詩や劇は不滅だろうけれども、限定された時間において創作される。特殊な事情がそれをあらしめるのだ。

 私にとっては今のところ、生の心霊現象の素材と類推から、 個体性は我々が物質と呼ぶものの中に隔離されている間に形づくられるように思われる。 心、または未確認の魂は、身体がそれを受け取るのに適していれば、ゆるやかに身体へと沁み出す。 初期段階では微小な一部分として始まり、やがて一定の量に達する。 そこまでのゆるやかな成長は、その個体自身の尽力と機会に依存する。 時折、その流入はいわゆる「偉人」を形成するほどになる――大多数の場合は、そこからはるか以前で止まるのだが。

 発達のための期間の後、今や確立された魂はその来たところへ還る。 ゆっくりとした、物事の自然な進行によっても、または突然の破局が起こっても、 どちらの場合でも魂は、力、才能、嗜好、記憶、そして肉体を持った生活の間に成就した経験を維持する。 それは魂が携えていって「全体」に寄与する、価値の増大である。 魂が再び融合し、その経験を充当する「全体」が何であれ、それはたぶんより大きな自我、 あるいは閾下の自我であり、ひょっとしたら来世での再生の形を加減する要素である。

 これらについての疑問に、私は判断を差し控える。 しかし、一時的に融合した物質的粒子はその役目を終えて後に残される、ということには自信を持っていいだろう。
 物質的粒子は常にまったく従属的に、置かれたそのままのところで使われる。 身体の物質に個人的同一性はない。 その粒子は様々な食物から集められ、一時的に同化され、他に場所を譲るために継続的に破棄される。
 どんな種類の支配も、その粒子によって訓練されることはない。 粒子はあちらへこちらへと押しやられ、一定の流動状態にあるが、組織全体はその同一性を保っている。

 それはたとえば、水の粒子は替わり続けてただ流れ去るけれども、 川はその同一性を保ち、ガンジスやテヴェレは変わらないのといくらか似ている。 類推は決して完全ではないが、示唆に富むものである。 一度暗誦された詩は消滅しない。オーケストラの演奏は天才の楽想の一時的な具体化であり、その再生の責を負う。 これらはなにか証明するわけではなく、ほんの引例ではあるが。


 主張5は、地球上の受肉は価値があるという意味を含み、その理由は我々も部分的に見ることができる。

 身体的表示を通じての個人の顕現と通常の経験は、個体性はそうやって仲間から大いに隔離されること、 またどのようなものであっても自らの人生を生き、できる限り人格を発展させねばならないことを示す。 同時に、同じ立場にある他者に出会い、友人を作る機会を得る。
 物質的な身体は精神的な障壁ではあるが、自然な結合でもあるのだ。誰かに出会う――道でたまたま、 とそういわれる――別な方法ではまず出会わないであろう人に。 我々は、身体的機構を通じてこそ歴史を持った特徴について学ぶことができるのだ。 文学の登場人物からさえも。身体は教育のためのすばらしい道具である。

 

 物質的側面において人間存在を構成する脳-神経-筋肉のメカニズムは、 その中においてすばらしく完璧である。 そして普通は感覚器官を通じてのみ、外部の影響に対して開かれている。
 人間はそれに従って外の世界と、やはり同様の状況にある他者を知覚するようになる。 他者から肉体的な伝達方法によって教育を受け、 世界についてなにかを学ぶ中で他者と協力することができ、 個性を発揮して世界の部分的な構成要素となる。
 
 人間にとって、他の人々とテレパシーや(言語や感覚器官を使わない)直接的なコミュニケーションをとったり、 じかに霊感を受け取るのは非常に稀なことである。
 経験のほとんどは、物質的なルートを通じて受信した情報に限定される。 その情報は主に言語という記号体系による。 言語は他者から学ばねばならず、それを使う力はゆっくりと獲得されるものである。 あらゆる種類の学問は、多少とも困難なものであり努力を必要とする。 さらに、教育と努力なしでは我々の情報は非常に限られてしまう。
 
 特別な感覚組織は、魂がそれを通して宇宙を眺める窓のようなものであり、 その窓は関連性のある情報を徐々に集めていくのだ。
 このように物質は重宝なものであるが、しかしまだどうも異質なもののように思える。 物質は、考えを受け取るだけでなく、表現するように、精力的に形づくり操られねばならない。 また生計や物質的身体の維持にさえ、確実で多大な努力を必要とする。
 こうして出会う困難は、魂の鍛錬の一部である。 個人的性格の価値は、物質を雇ったものの智恵と、特殊な状況をうまく活用することにある。 そして、地上生活のエピソードは、人格の発展に大きな価値を持つのだ。 知識の拡大に、新しい友情の育成に、そして一般的な人生の豊かさを加えることに。


 主張6は、実在は不変であり、物質的媒介物――それらを理解することを可能にし、表示し、 かつ援助するもの――には依存しないという趣旨である。

 受肉し孤立した一個の霊魂は感覚組織によってまかなわれ、 それによって、宇宙との何らかのコミュニケーションが保たれる。
 しかし、固有の感覚はその範囲内に厳しく限定されていると考えられる。 その起源は動物界で有機体が食物を獲得し、敵から逃げ、周囲を取り巻く他の危険を避けることにある。 こうした情報経路は、ただ高等な被造物においてのみ、 日常的な目的だけでなく科学的・哲学的な研究に使われたのだ。
 
 さらに我々自身を見ればわかるが、事実というものは、 単に動物的な反応のあとで気づいたり思い出したりするものではない。 事実は分類され、一般化され、推測される。 自然に望みうるようなやり方の、はるか上を行く方法で推論が作成され、知識は体系化される。 我々が物質的宇宙から実際に受信する、単なる接点と振動がすべてであるものから推論ができるほどに。

 

 私は主張5の我々の感覚から推論を扱う。
 今、我々が了解する必要があるものすべては、概ね宇宙のことがらであり、 より広い意味において我々の感覚は少しも、あるいはなにも、直接には告げない。
 
 感覚は我々を物質の知覚に限定する。我々は雰囲気でさえ本当に知覚してはいない。 音や光、または照らされた塊からはね返る光だけを知覚するのだ。
 それが、我々の思考の中で「物質」がとても大きく織りなされる理由であり、 その他にはなにも存在しないと人々が想像したくなる理由でもある。 そして物質の集合体とは別個に、生命と精神と思考と大志の宇宙があると信じるのが難しい理由でもあるのだ。
 物質の集合体はその別の宇宙によって一時的に動かされているのであり、 またそれは物質の集合体を通じてのみ、我々の肉体的感覚に直接訴える。

 我々が直接的な知覚を超えて進む時には、想像力とイメージ――精神的イメージ、 科学的な専門用語では時に「モデル」とよばれるもの――を作る訓練をしなければならない。 この文脈でのその単語は、純粋に技術的な重要性を持つものではあるが。
 
 物理学者は、方程式の安全な基盤を離れるときには、常に類推や実用模型をイメージしている。 これが、彼が想像したり、眼に見えないもの――たぶん4次元でさえも――の精神的な像を作るやり方である。 また原子の構造の複雑さ、電子の作用、放射能の性質、 さらには宇宙の微細なエーテルとつながったあらゆるものを追う方法でもある。
 
 物理学者は明確で満足のいくイメージを形作れないこともあり、19世紀全体を通じて、ある程度の失敗があった。 問題の鍵、あるいは手がかりは、20世紀になってその手に入り始めたばかりである。
 しかし化学者は19世紀においても、 手がけねばならないほとんどすべての物質の分子構造に到達するために、この想像による手法を使った。 彼らは驚くほど重要な細部に踏み込み、そのうちいくつかは物理学の進歩によって現在確認されている。 水晶を通したX線に露光させた、感光板上のわずかな斑点の分布は、物理学者の想像力に対して多くのことを語るのだ。

 これは再び人間が、より高く神秘的なレベルにおいて、 宗教の秘儀と神学の構築を論じることを望める唯一の方法でもある。
 感覚上の欠陥は補助されねばならないが、それは実に、ただイメージによってのみ可能である。
 不可視のものは可視のものによって必ず明らかにされ、かつ理解可能にされる。 そして想像力は、曇りなく明晰であるために、必ず感覚的な知覚の中心や核をもつ。

 この過程があまりにも遠くまで突き進むなら、そこには危険が潜んでいる。 その危険は、ある学派がそれを嫌い、その過程を非難する原因となってきた。
 我々はしかし、イメージと偶像を混同しないよう用心しなければならない。 真の心像は偶像的なものではなく、ヴィジョンである。 霊的なことがらの心像を真に理解することが肝要なのだ。  
 それは一種の具現化であり、物質の賛美であり、受肉においてその高みに上がる。 そして受肉の間に物質が最大限変貌するようになったとしても、驚くには当たらない。 受肉を許可、あるいは可能にするのは、物質のもっとも高い機能である、その神格化なのだから。 それこそが、その栄光と主な目的である。 「形」を認めることによって、それは永遠をあらわすことができる。 『魂は形であり、行為が体を作る

 身体は、魂を保ち、援助するために構成される。 そうして魂は、静謐なときには神さえも映し出せるのだ。 次に挙げるのは私の息子が書いたものにすぎないが、そういった意味の詩だ。 身体が、聖杯としての精神の住み処である神殿として描写されている。 杯の中の液体は、穏やかで平和なときに実在を映すことができる。それがいかに遠く輝いていても。

「家と杯」
自由で自然な肉体よ
精神を保つ清浄な家であれ。
そして精神は汝の美しく円い器を作る、
魂を受ける清浄な杯を。
魂よ、静まって彼方を映せ。
夕星の澄んだ姿を。
――O・W・F・L

 我々が理論を形作り、ありふれたものの中にさえもその基礎をなす現実を掴むのは、想像力の機能の訓練による。 我々は常に現実や実体、あるいはただ間接的にのみ感知する実在を推測している。 電磁気学から、さらにもっと先へと。
 
 たとえば磁気は、一定の物質の風変わりな動きやふるまいから解るだけだ。 しかし、誰もが真空中の磁場の存在をも認めている。
 そして科学理論の発展は計り知れない。 光もまた、いったん生じればかなり物質から独立しており、物質は別として、その存在はやまない。
 存在の外へと飛び出すものはない。すべてはただ変容するのみだ。実在は永遠である。

 だがちょうど光が物質から独立しているように(原子によって吸収されるか、 新たに発生させられる場合を除いては)――光が物質のない宇宙空間を何千年も旅して、 発生源で与えられた印象のあらゆる詳細を共に運び、 何世代も後にその秘密を遠く離れた分光器に届けるように――私の見るところ魂は、 地上の人生の詳細な記憶が刻印された知性と共にある。 そして後に、適切な受容能力のある霊媒によって判読したり、交信することが可能な状態でそれを保持する。


 主張7は、個人的な死後存続の証拠を仮定する。

 今や、生命に関する重要な疑問が浮かび上がってくる――精神のなんらかの非個人的な永続性を 一般に認めたとしても――個性を発揮した精神の一部分が、 その個性ともいえるような身体的特性を持っていた物質的組織が破壊された後も、 そして一度存在したその粒子の集合が分散したずっと後になっても、 その個体性を保持できるのかどうか。
 
 我々は「個性は、傍から見たときにその個人を構成する、特別な粒子の集合に依存する」と 誤って想像する傾向がある。
 そして粒子の集合が分散し破棄されたとき、個性もまたなくなってしまうか、 でなければ宇宙的存在の、曖昧な憶測上の養分として戻ってくるのだと思ってしまう。
 
 完全に存在しなくなる必要がある、と思うのは不合理であろう。 しかしその不合理な考えは存在するし、また今までは、我々が死と呼ぶものは、 我々が知っていた者としての人間の終わりである、と思うのが自然であった。
 
 我々は――少なくとも私は――単なる議論によってのみ、 物質との連合において成長した個性が、その物質を後にしたときの存続を 確証することは望めない。 プラトンの「ソクラテス」はその方向でのもっとも優れた試みであったが、明らかに説得力に欠けていた。
 
 さて、我々はもっとも肝心なところにやってきた。そして経験の上に戻らねばならない。 我々は議論によるのではなく現在の観察の事実によって導かれなければならないし、 そして今や「個人的な魂」と呼びうるものの存続を確証しなければならない(いやしくも我々に確証ができるものならば)。 どうすればこれが望めるだろうか?

 

 ところで、確かに好奇心をそそられる報告が、著名な生理学者たちと数名の医師から出された。 彼らはなんらスピリチュアリズムへの偏向がないどころか、実に激しい嫌悪を持っていた人々である。
 彼らは、トランス状態に入った人の、身体の外側における原形質のような物質の噴出や形成と、 その、まるで一時的に物質化した知性によるかのような、明らかな制御について証言した。
 
 その知性は、通常は筋肉の収縮で達成されるような動きを演じてみせ、――物体の動きで、 塑性の物質の上に鋳型か刻印を残したという――いっとき占領され整った組織を捨てて、 たぶん彼が来たところへと旅立つ。借用された物質の原形質は、その元へ戻る。
 
 これは私が特に強調したいと思う現象ではない。それは正直なところ、実際に見ずに信じるのは難しい。 だが通常、物質化には、慣れていなければ信じられないような多くの事実と伝統があるのだ。
 そして私は、テレキネシスとこの変わった種類の物質化の、両方の証拠に感銘を受けた。
 
 これらの奇妙な出現が実証されたときには、すべてあらゆる受肉の足元に横たわる、 「エーテルに潜む知性と物質との一時的な連合」という私の学説を明らかに示し、 補強するだろうということが私にはわかる。
 彼らはたぶん本当に、ひょっとしたら、我々が今よく知っている方法の他に、 生命と精神を物質との関係の中へ誘導する方法を示唆するかもしれない。

 しかしこれらの発生そのものは、 いわば異常な受肉または物質化、あるいは物質の精神-身体的撹乱であって、 物議を醸している。 そしてどの場合も意味が不確実で、含意は不明瞭である。 そういう方法や援助によって、我々が個人的存続の信念を強くすることはなさそうだ。 その多くは本題から外れるように思われ、その現象は気味が悪いと言われ、嫌われる。
 
 しかし、だからといって科学がそれに背を向けることはない。 私がここでその現象に言及するのは、認められている科学的学説の視野の外にありながら、 なにか触知できて物理的なものの証拠になるからである。
 そして、このありそうもないアプローチの方法を通して、科学の要塞が攻撃されるかもしれない。 好奇心と関心が刺激され、それによって門が開き、やがて超常の知識が流れ込みはじめるかもしれない。 私は、時が来ればこれが起きることを幾分か期待している。

 さて、比較的関連性がないとしてこの部分を後にし、 あの疑問に戻ろう――肉体的な死後における、個人的な人格の永続性の、 もっとも単純で直接的な確証の方法は何か? 
 もっとも直接的なプランは確かに、もし実行可能ならば亡くなった個人と実際に通信することだ。 彼らがまだ存在しているかどうか、そして変わらない記憶と性格を持つかどうかを知るために。

 だがどうやって、このような身体のない存在と連絡をとればよいだろうか?  それが存在するとしても、彼らが物質の身体を持たない以上は表現手段がなく、 感覚を通じて我々と通信する方法がない。

 あるいは、それは不可能だったかもしれない。 しかしその対象を調査して、証拠に対して心を開いた者たちによって、徐々に、 通信は不可能ではなく、テレパシーという事実がその助けになることがわかってきた。
 すでに、身体的刺激が加えられず、感覚組織が遮断されているときに、 ある人々は精神的作用から完全に遮られてはいないことがわかっていた。 つまり伝達・受信の器官とは関係なく、なにかが受信できたのだ。

 もし精神的作用が死後も続いて存在するとしたら、 その人々は、送信者が肉体のない知的存在であればもっと印象を受信できるだろう。 送信者が肉体を所有しているときでさえ、通信に肉体的手段を使わなくてもいいのだから。 そうやって、古い物質的な身体が細かな断片となって崩れ去った後でも、 おそらくエーテルか、あるいは純粋に精神的な伝達方法を使うことは可能である。

 かくして、肉体を持たないものと実際に連絡をとることは可能であるように思われる。 そしてこれこそ我々が、真であることを見出すべきものだ。
 受信能力はありふれたものではない。 それは他の不可解な精神的能力と同じように、あちらこちらの特別な人に所有されている。
 
 ある人々には数学的な能力があり、その低い段階では算数の能力が特に顕著で、計算の天才として知られる。
 また他には著名な音楽的才能のある人々がいる。 音同士の関係が自然にわかり、そのため空気の振動の特別な系列と共存を評価し、作り出すことができる。 普通の人々はこれを旋律とハーモニーとして、より低い度合いでとらえることしかできない。 この力はただ教育の結果だけではなく、時としてほんの小さな子供にも現れるのだ。
 また高度な芸術的能力のある人々がいる。顔料の集合は彼らの中で沸き立ち、 他の人々の中にも強烈な情動をひきおこす。 彼らはこうして色彩と形状の表現で世界に語りかける――普通はただ部分的に感知されることばで。
 だから、精神的受信の特別な能力のある人々を見つけて驚く必要はないのだ。 特別な養成や教育とは関係ない――彼らの力は自然なものに見える。

 しかるべく我々は、受信またはテレパシー能力が特に発達した人々を見つける。 その能力は一般的に「霊媒」として知られる。
 彼らを通じて、そして彼らの援助によって、 肉体を持たないものとの間接的なコミュニケーションという恩典に到達することが 可能になる。
 
 その力は国民性、環境、教育、性別、知性さえも無関係であるように見える。 何人かは男性、何人かは女性、何人かは子供、 また何人かは教育を受けた学者、何人かは無学な人々であり、 大多数はただ普通の家庭的市民で、なにか特に目立つこともない――いろいろな、 自然で最も多数派である人々からの選択である。
 
 彼らが才能を訓練する方法は場合によって違い、そして誰も受信能力は持続しない。 ある一定の穏やかさが必要だと思われる。 そしてひとりで、または観察者の立会いで、 彼らの身体的組織は、彼ら自身のものではないある知性によって時折動かされる。
 
 いくつかの事例では、精神的な操作者はその脳-神経-筋のメカニズムを通して 直接生体に作用するように見える。 しかし他の事例では伝達はテレパシーとなって現れる。 伝達者の思考は受信者の精神によって、彼または彼女の生理学的な組織を通して受信される。 いかに神秘的だろうと、いわば、通常の方法で。
 それは精神と物質の間の相互作用として考え抜かれ、我々はそれに慣れ、成長した。 私はこれを後の5章で詳しく述べよう。
 
 そこで得られる彼らの筆記も談話もまた、言葉と文――おそらくは、 まだ地上にいる親族へのメッセージ――であり、その意味は自動書記者や入神談話者には、 たぶん明らかではない。 しかし多かれ少なかれ伝達者の意思の正しい表現であり、 それが向けられた人、あるいは意図された人にはっきりした意味を伝えるためによく適合している。
 これらのメッセージは現在、 こうして愛する者と連絡をとることが可能になった遺族によって、時々受信されている。 そして故人の記憶と性格と親愛の情が存続することが明らかになったのだ。
 
 身元の証拠は与えられ、また些細な回想とも呼べるものを通じて与えられねばならない。 この種の回想は日常でも、離れたところにいる人が、 電話を通して誰かの身元を確証しようとする目的で自然に使われているものである。 そして同一性の証拠は、往々にして遺された者がその懐疑を乗り越えるほど非常に強く、 本当に意図された慰めと希望を受け取ることが可能なのだ。
 遺族は特に信じがちであり、そして喜んで藁にもすがるものだと思われるだろう。 時折はそうだが、しかし決して常にそうではない。 えてして安定した確信への切望が、正しくも彼らを極端に懐疑的にするのである。

 その上、証明はただ遺族の証言のみによるのではない。 同一性の証拠は、科学的研究者たちによって検査されてきた。 面倒はすべて生者から心を読み取る可能性と結びついていることがわかっており、 詐称や類似の危険を認識している者たちである。
 こうして、個人的同一性の証拠は注意深く体系的な手法で、ゆっくりと確証されつつある。 その手法の一部はこちら側の批判的調査によるが、 主な部分は、あちら側からの特別かつ高度に知的な伝達者の努力による。 そのうち、あるものは特にこの主題に興味を持っており、 軽率さや、しばしば巧妙さ、 徐々に蓄積されて代替の可能性として提唱された仮説 を排除するべく、特別な努力をしたように見える。

 私にとっていまや証拠は事実上完全であり、 すでに、私が持つ通常の正常な経験からのあらゆる推論よりも、 生き残った個性の連続した存在のほうを疑う、ということはない。
 
 わざわざ困難な通信をしようという者たちはみな似たり寄ったりである。 間違いなく彼らはゆっくりと進化しているが、突然地上から離れて行ってしまうわけではない。 その何人かは後に残してきた者への親愛の情に動かされている。 遺族の悲しみによってかき乱され、その喜びを分かち合い、 そして、親愛の情が変わらずに続いているという知識、興味、助力、個人として見分けられる確かさ、 最終的な再会へのはっきりした期待を通して、遺族に平安と希望を与えることを切望しているのだ。
 
 また他には、義務感によってつき動かされる者たちがいる。 その義務感は、死後存続の現実性に関して世界を啓発し、 彼らの存在の仕方に関してできる限り我々を導き、同情し、 現世の出来事を援助する力を持っていることを示すよう、彼らを駆り立てる。
 その上、彼らは時々、これから起こることを見、推測し、 こちらにいた時のように注意と助言を送り、 そして広く地上生活を送るという機会の重要性、その特典の責任、性格の永続性、 来世で続けられる仕事と奉仕のために維持された力を、 我々に印象づけることができるように思われる。

 いったん同一性が確立されれば、彼らは喜んで その存在の拡大された視野と大きな可能性について我々に語ってくれる。 むろんそれを理解するのは難しく、その半分しかわからない状況ではあるが。
 彼らの物事の理解は、言うまでもなく完全からは遠いものであって、 我々よりも少し知ってはいるが、そう多くではない。 彼らは我々の持つ問題のいくつかを解決できると感じているが、 それでもまだ彼らを悩ますものがあるのだ。
 彼らは彼らなりに無知と不可能とを持っており、 神託や絶対確実な情報源として扱われるべきではない。 だが、その無知と不可能は時が経つにつれゆっくりと減少する。 そして彼らの教えの一般的な成果は、気高く高尚な性格によるものである。

 まったくのところ、我々のインスピレーション――天才の閃き――のいくつかは、 本当は彼らから来ると主張できるだろう。 彼らは、思った以上に我々と接触しているのだ。
 そして我々も、思考と行動で彼らを手伝うことができる。 感覚的な溝以外に、彼らと我々との間に深い淵や溝はない。 我々はなおひとつの家族である。 彼らは物質的困難から解放されたが、他の点では変わっていないのだ。
 彼らは我々の地上生活を激励と希望をもって見渡し、 目撃者の雲と呼ばれるものを構成する。 彼らは再会の時と、揺るぎない前進と、より高い境涯への到達を楽しみにしている。 よりよい仕事が用意されており、それは我々がいなければ完全にはならないのだ。

【問題と抵抗】

 時折、通信のために霊媒を利用することに対する反対意見を聞く。 なぜ直接自分たちで通信できないのか、と人々は尋ねる。
 なるほど、その能力と力があればできるだろうけれども、 なければ指定された方法を使わねばならない。  
人は離れたところにいる人と電報で連絡をとりたいとき、 直接自分で打つのではない――その方法を知らない。 無関係なひとりかふたりのオペレータのサービスを利用する、 すなわち、仲介者(※medium=霊媒、媒体と同語)を使うのである。
 
 実際それはすべての正常な伝達方法について言えることだ。 我々はそれと気付かず、いつも媒体を使っている。 話すときには空気の振動を使い、 見るときにはエーテルの振動を使い、 触るときにさえ、自分自身の身体の慣れた道具を使う。 肉体のないものと通信するときには、それに必要な能力がある霊媒の、身体的機構を使うのだ。
 
 この能力は、たぶんありがたいことに、我々のほとんどには与えられていない。 そのため我々は各自の仕事に参加し、本分を尽くすことができる。 霊媒とは、他者に援助を与えるために、その生活の一部を犠牲にするものなのだ。 我々は彼らに感謝し、その仕事を容易にすべきである。 彼らが他者への奉仕に一身を捧げている間にも生活できるようにするための、 控えめな報酬を惜しむという考えは完全に非常識である。
 
 目下、彼らの務めは一般的な嫌疑や、古臭い法律の制定によってさえも難しくなっており、 また詐称者――本当はその力を所有せず、それを真似て自らの最期を招く、 数人の詐称者――の恥ずべき活動が欠点となっている。 こうした悪意ある者の存在は知られているが、その数はそう多くはないだろう。 しかし彼らは、他の心ない詐欺師と同じように、どこにいようと危険である。 有能な研究者ならばすぐに彼らを見破り、彼らの不正な経歴は打ち切られるだろうけれども。

 詐称は別として、とにかく、本物の通信の力は変わりやすいものである。 何人かの霊媒は他の者よりその力が強いが、 常に変わらない力を持つ者は、その中にも誰もいない。
 他のすべての対象と同じように、ここでも常識が使われ、考慮がなされるべきだ。 もし伝達過程が簡単なものだったら、とうの昔に一般に認められていたことだろう。
 
 徐々に現代科学は注意を払いはじめており、 そして時が来ればこの問題全体が、現在より満足できる足場の上に置かれるだろう。 揺籃期のあらゆる科学がたどらねばならなかった道を通り、今、初期段階を通り抜けつつあるのだ。
 かつては無線通信が不可能な時代もあった。現在ではありふれたものであるが。 我々は無線通信の機器よりも、はるかにわずかしか理解せずにその力を扱っているので、 テレパシーや霊媒能力がありふれたものになるだろうとは言わないけれども。
 
 1世紀前には我々は電気を使えず、それは神秘的なものだと(たぶん今でも)思われていた。 完全に浸透し遍在するエーテルの存在は、 火の前で暖まったり陽光のもとで日光浴をするときにその振動を感じ、 また毎日それを使ってメッセージを送っているのにもかかわらず、 否定されてきた。
 
 しかしテレパシー通信のためのどんな物理霊媒がいようが、 宇宙のエーテルもまたそれに奉仕しようが、 我々の永続する実在が物質の代わりにその実質と結びつこうが、 我々には確かなことはまだわからない。 最近他界した人々もそう考えるようだし、私が知る限り彼らは正しいであろう。
 
 だがあらゆる科学的な問題において、 我々が、我々自身の代表として調査を行い、 そして検証せずに誰かの証言を認めるようなことはしない、 というのは理にかなったことである。 たとえその証言者たちが、どんなに申し分のない学識を備えているように見えても。
 
 これらすべて、および他の不明瞭な数多くの問題について、 すでに大変有効だと判明した科学的方法に従って徐々に進歩していくなら、 我々はより多くの知識を獲得し、よりよい理論を考案することができるだろう。 F・W・H・マイヤースから再度引用する――

科学は万人共通の言語を形作る。 科学は、誤解されれば自ら釈明し、誤れば自らを正すことができる。 また人類はいまだかつて、理性的に公正に科学の方法をたどって、 結局は誤ったところに導かれた、ということはない。

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