第3章 心霊研究のための事例

先駆者が敵対する力に試され打ちのめされたとき、 ようやく一般大衆は彼の事柄に注意を払うだろう。 機が熟した瞬間に権威は許し、扉を開ける。 そしてかつての異端の品は、静かに正統派の貯蔵物となるのだ。
――ヒューバート・ハンドリー師による、フォン・ヒューゲルの (心霊問題ではなく)教会に関する発言を扱った小論文からの引用 /ヒッバート・ジャーナル、1928年1月号
  
もし調査が、まず詐欺と愚行のジャングルを通り抜けるよう我々を導いたとしても、 驚く必要があるだろうか?  コロンブスがサルガッソー海で身動きがとれなくなった時、 パニックを起こした船員に屈しても当然だったというのだろうか? 
もし不可視の世界に関する最初の明白な事実が、ちっぽけで取るに足らないように見えたら、 探求を思いとどまるべきだというのだろうか?  それでは、コロンブスがアメリカの沖合で役に立たないただの丸太を見つけた時、 それが陸地を示していても、丸太には価値がないからと故郷へ船を返すのも同然だ。
――F・W・H・マイヤース、「Human Personality」II, P306

 科学の歴史が輝かしい達成の記録であることは疑いようがないが、 それはまた抵抗と保守的な妨害の記録でもある。 安定した理論というものは、自分の縄張りを保守し、新機軸を面白く思わない傾向がある。 真実を主張する者たちは常に、敵意を持った批評の鞭の間を走り抜けねばならず、 誰かが迫害を免れたとしたら、それはただ運がよかったのである。
   
 かつて解剖学者たちは、彼らの仕事を秘密裏に続けねばならなかった。 血液の循環は、非難とともに一般に認められたのだ。
 ガリレオの望遠鏡での発見は抗議を受けた。 そして何人かの教授たちは「どうせまやかしが見えるだけだ」という固定観念を持っており、 器械を覗いて見るのを断った。 理論だけでなく実際の事実までもこうして拒絶され、無視されたのである。
 ロジャー・ベーコンは魔法と迷信に基づく行為で告発された。
 ほぼすべての発見は、多少なりとも非難をもって受け入れられてきたのだ。 我々自身の時代においてさえ、ジュールの最初のエネルギー保存の証明が棚上げされ、 精緻な気体分子運動論の最初の論文が王立協会によって拒絶され、 不採用となったことは思い出されてもよいだろう。 化学の不活性ガス「アルゴン」の発見さえも、化学者たちから熱意を持って受け入れられたとは言い難い。

 ゆえに、ウィリアム・クルックス卿の心霊現象の調査が猜疑の目で見られ、信用されず、 完全に科学の領域の埒外に置かれたという事実に驚くことはない。 それは今日まで認められておらず、また確かに、懐疑論にもそれなりの理由はある。 その現象は正直言って、信じられないように思える性質なのだから。
 
 しかしながら彼は、機械的な性質の簡単な実験を工夫し続けた。 その実験は、かつて彼が王立協会の役員たちに検証を望んだ、 体重の明白な変化や不可解な力の行使などを示すものである。 そしてやはり、役員たちの同意を得られないままだった――不可能だと思えるものに立ち会うことに対して。

 実験方法それ自体が、自由で直接的な事象の調査方法は、 誕生してから何世紀も経ってはいないのだ。 それを知っておくのは当節では逆に難しいが、おそらく有益であろう。 
 まずヴェルラム公フランシス・ベーコンがそういった方法を提唱しなければならなかった。 そしてガリレオによってそれが実行に移されたときは、 ほとんど神を畏れぬ新奇なものとして、人々に衝撃を与えたようだ。
 
 そして得られた結果は、何百年あるいは千年も権威を持っていた古来の教えとは、 大抵の場合一致しなかった。 そういう実験に対する抵抗は、アリストテレス派の哲学者だけではなく、 間違いなく、古代の聖書に立脚した聖職者や文学者からも来ていた。 彼らには、天文学と地学の示す事実は聖書と矛盾している、あるいは矛盾するように思われたのである。 実のところ、聖職者の地学への抵抗は、ほとんど生活記憶の範囲内から来ていたのだが。

 にもかかわらず、現在ではほとんどの主題において、 科学的人間の頑固さが自由な自然の探求への戦いに勝利した――古い考え方が覆されようと、 また、期待された結果がなんであろうとおかまいなしに。
 化学、物理学、生物の科学実験の方法は、ごくわずかな反対者を残して、ようやく一般の好意を確保した。 その結果、理性的な抵抗は今や主として理論的な展望に関するものとなり、まったく合理的に探求されうる。
 事実は基本的に認められ、いずれにせよ科学全体によって実際に慎重に検証され、研究されるのだ。 それによって真正の事実は見せかけの種類から整理され、 そして作業仮説は、事実を理解するための理にかなった努力として許容される。
 
 今や、古くからの力学、物理学、化学の学説は、熟考し改良と修正をしなおすには神聖視されすぎ、 また「絶対的に確実」すぎると見なされていると言えるだろう。
 やがては、量子論や相対論のような、 頼りない証拠の上に自由に作られた仮説によって、過度に進んだ革命的な理論を、 喜んで認めるよう要求されることすらあるかもしれない。 そして、それがより高く完全な未来の知識への足掛かりとして認められるかもしれないのだ。
 その理論が仮に、我々の先入観と偏愛に反するものであっても――その先入観が、我々にしてみれば 全く適切で包括的な、宇宙の一般的な構造の考え方だと思えるものであっても。

 確立されたほとんどの科学がそうした状態にあるのは本当だが、 「Psychic Science 心霊研究」――簡潔さのためにそう呼んでも差し支えない――は、 自由という特権をまだ確保していないことは注目に値する。
 この科学における実験方法は、容疑と嫌悪の暗雲の下にある。 有能な研究者によって肯定される事実が、 正統派の学会からは付き合う価値がないとみなされてしまう。 それらの事実は、現在確認されている宇宙の一般的な構成と調和しないように見え、 結果的に受け入れられないのだ。
 しかしながら、事実それ自体の力と絶え間ない反復によって、 この抵抗が打ち砕かれる時は確かに訪れるだろう。 今まで慎重に調査を試みるために、自らを犠牲にしてきた者たちの主張を別にしてさえも。

 リシェ教授が「メタサイキック Metapsychics」と呼ぶ、 異常で変則的な心理学の一部門に適用された実験方法が試験中である。
 一般的な反対意見に起因する問題点と、人間――それを通じてのみ対象に関する知識を得ることができ、 その助力によって実験が行われる――という手段を迫害する傾向に対抗して、 ただ、その道をゆっくりと切り開きつつある。

 さて、しばらくは現状に耐えねばならない。
 事実は文句なしに驚くべきものだ。 しかしそういった事実は異常な状況で研究されねばならず、多くの場合、民話と迷信の雰囲気に包まれており、 またそのいくつかは、司祭の仕事や詐欺にさらされてきた。
 さらに、その事実が人類の希望と抱負に関係しているように思われる限り、 また、人間の愛情・死別と混じり合っている限り、 そして慰めに寄与し、宗教的信頼に関係する限り、 ――我々はまさに直感的に、特別な配慮をもって検査し、批評しなければならないと感じる。 そして、科学的調査にふさわしい、感情をまじえない批判的な精神で、 それらを扱うには努力を要するのだ。

 そういった現象は、人間の歴史を通じてあれやこれやの形で主張されてきた。 古代の宗教文学はそうしたもので一杯である。 その名残りは、未開の種族のならわしの中にたどることができる。
 だがどういうわけか、それは我々の現在の文明の在り方には馴染みがないように思われてしまう。 訓練された現代の科学的観察者だけが、辛うじて受け入れることができるのだ。
 
 しかしこれらすべては、現実的な真実性が一旦確立できた場合にのみ、 その測り知れない重要性を示すのである。 研究者の主張によれば、それは非常に大規模な多様性をもっている。 それにかかわる事実は精神的なものだけではなく、物質的かつ生理学的なものでもある。 そしてもし、彼らが結局のところ真実を証明すれば、 それは人類の知識の新たな1章の始まりどころか、新たな一巻の始まりとなるにちがいない。

 手短に、ニュートンの時代から有益であり、 かつ成功してきた機械的・物質的説明の一般的傾向と、 それらの現象とが、一致しないと思われる点について概説しよう。

 まずなによりも強調しなければならないのは、 そういう事実は、機械的な説明が可能な限りは決してそれを否定したり、 取って代わったりはしないということだ。 すべての重大な現象と同じように、機械的な説明を補うものなのである。 生理学的機構は決して完璧なものではないと認め、さらに先へ進むようはっきりと求めるのだ。
 
 チリのような細かなものまで説明できるのでなければ、機械的説明は不完全である。
 それらは現実としての生命と精神、 物質とは別個であり、物質の変遷の外にあるにもかかわらず、 物質と相互に影響しあうなにかの承認を要する。
 生命と精神はエネルギーの法則との完全な調和のうちに物質を導き、促し、 非有機的な自然によっては起こらない成果を示す。
 
 脳は精神の器官か道具となるのであり、精神そのものではない。 有機体は、原形質のような細胞であろうと、そうした細胞の凝塊であろうと、 生命と呼ばれる未知の存在、物体とエネルギーをそれ自身の目的に活用する存在によって、 活性化されるのである。
 機械的作用は代謝のあらゆる領域でたどることができる。 組織とそれぞれの部分の、ゆっくりした成長の段階は詳細に追える。 しかし組織の自発的なふるまいは、分子活動だけでは説明できない。

 さらに我々が示した、生命と精神としての高位の存在は、 我々には思いもよらない、これまで探求されたことのない種類の力を持つことがわかっている。 それは、生物学と心理学のさまざまな分野でこれまで研究されてきた、 通常よく知られたプロセスを超えるものである。
 
 そして、精神の活動が、その身体的器官や組織の働きに限定されていないことを示すと思われる、 確かな事実がある。
 物質的器官は、精神の働きの結果を示すため、文句なしに必要ではある。 が、精神はあらゆる物質的器官とは別に働くことができるのだ。
 
 たぶんこれは、我々が知覚において、感覚器官によって妨げられる理由である。 感覚器官は「動物たちと共有する組織」であり、物質だけを直接伝える。 科学や哲学の研究以外の目的のために発達した、限られた性質を持っているのだ。
 なるほど、我々が生理学的組織を器官によって補充するのは本当だ。 しかしそれもまた、物質的で機械的な性質のものである。 少なくとも、電気が物質的宇宙の一部だと認めるならば。
 
 しかしながら厳密に言えば、電気と磁気と光、結合力と重力は、 物質のふるまいによって示されるにもかかわらず、 広い意味では、物質的というよりも物理学的である。
 理論的にわかる範囲で極力エーテルを考えに入れるなら、 生命および精神は、それが埋め込まれている物質の粒子よりも、 十中八九エーテルと、より純粋で永続性のある結合をもつ。 そして私は将来、生命および精神と、より直接的に感知される存在の実体との、 間接的な相互作用の手がかりを掴むことを期待しても差し支えないと思う。
 
 それは現在ひとつの作業仮説にすぎず、過度に抑圧してはならない。 精神的なもの、あるいは他のすべての活動の、自然な付属物に感銘を受けた者は、 早まって信念を放棄する必要はない。 今までは存在すら知られておらず、それゆえに隠されていた生命と精神についての説明は、 宇宙のエーテルの構造、性質、機能のよりよい理解を通して、 ついには見出されるという望みを抱き続けてもよいだろう。

 さて以上は考察に取っておくとして、経験的な事実とはなんだろうか。 十分に探査した者たちが報告書をまとめ、明示し実証してきた事実とは?

 まず初めにテレパシー現象がある。 すなわち、既知の身体的伝達経路とは別の、 ある精神から他の精神への情報や考え――あるいは感覚さえも――の伝達である。
 テレパシー受信の能力は、文明化し、他にたくさんの伝達手段を完成させた人々ではあまり見られない。 話すことと書くことがテレパシーを不要にし、その能力を部分的に退化させるのだろう。
 あるいはテレパシーは、身体組織が破棄されたときにのみ完全に発達を遂げる能力の、 発生期の萌芽かもしれない。 身体的組織は、確かに個として我々を隔離し、 聴覚と視覚と触覚の慣れた経路を通す以外は、思考の受信を遮るように思えるのだから。

 実験は、信頼できる人々によって、 ある人から他の人へと、知られざる方法で通信することが可能であることを示してきた。 伝えられることがらは、物体の概念でも、局所的な痛みでも、病気や死の印象でもよい。
 
 とはいえ、後者の伝達――病気や災難――は、実験の範囲には収まらない。 どちらかといえば自発的な印象として起こり、また、距離とは明らかに関係がない。 時として非常に鮮明であり、幻覚とかヴィジョンと呼ばれるイメージや、 遠くにいて具合が悪かったり、困っている人の声として起こる。
 離れたところにいる誰か、その存在を切望する誰かからの「呼び声」を、 このようにして受信した多くの人々がいる。
 こういう、時に感情的な事例の可能性は、経験的な思考伝達の種類によって正当化されてきた。 感情が含まれないとき、そして伝達された考えがとても平凡な性質であるときには、 単に実験を担当した研究者によって決定されてきた。

 この種のテレパシー実験の一般的概要は、今度こそよく知られねばならない。 そしてより多くの実験が慎重になされれば、 多くの人々が受信能力の痕跡を有することがわかるだろう。
 だが疑いようもなく、こうした現象にはそれ自身の法則があるのだ。 我々は成功する条件を見つけねばならないし、また実験を行う者はみな、 失敗しても、失望は禁物であることを知っている。

 テレパシーがはっきり確立されたとしたら、その重要性はなんだろう?
 主な重要性は、精神活動は身体組織と器官に限定されないということの証明にある。 通常は身体組織が精神活動を伝えているのだけれども。
 言い換えると、精神は身体から独立しており、 我々は身体器官が破壊されたときの精神の破壊や停止という仮定に捉われることはないのだ。 実際それは単に最初の一歩にすぎないが、死後存続の証明へのステップなのである。

 しかしすでに研究者たちは、より先の段階へと進んでいる。
彼らは、そしてもちろん私自身も、 肉体の死を乗り越えた者たちとのテレパシー通信をすることは可能だと断言する。
 
 彼らの精神、その性質、性格は持続するが、直接我々の物質的感覚に印象を与えることはできない。 が時折、引き続く愛情や十分な動機に駆り立てられて、後に遺された者たちにメッセージを伝えるために、 生理学的な器官――受容性やテレパシー能力に恵まれた、 生きた人間の脳-神経-筋のメカニズム――を利用することができる。 そうしながら、彼らはよく本人であることを証明するよう行動し、その存続を不動のものにするのだ。
 
 これは軽々しく扱うべき事柄ではなく、また、そのすべてについて述べるのは容易ではない。 私はただ、私と他の多くの人たちが知っている、一連のすばらしい証拠の力によって述べるだけである。 それが正しかろうが間違っていようが。
 それが正しいなら、その巨大な重要性を過大評価するのは難しいほどである。 人類の希望と未来、いやむしろ人間の個体性にかかわる限り、 その証拠は切望され、慎重に吟味されるに違いない。

 さて、これが今までのところ正統派の科学から完全に無視されてきた実験の性質である。
 こうした問題での実験は、科学界と宗教界の双方から怒りを買ってきた。 我々が実験を行ってきたその手段、いわゆる「霊媒」は、法による告発の危機にある。
 科学はまだ、自由の特権を完全に勝ち取ってはいない。 まだ一般的でない研究部門があり、まだ見ることを禁じられた問題があるようだ。 あざけりと抵抗の古い鞭打ちの列は、まだ走り抜けるべく存在する。
 
 しかし時代はゆっくりと変わっている。 大気は澄みつつあり、すでに私の若い頃よりもはるかに澄んでいる。 望みのない迷信として、私もまたこのすべてを拒絶するのが当然だった時よりも。
 私は、まもなく科学的な仲間、物理学者だけでなく生物学者のより若いメンバーが、 存在すら知られていない可能性に心を開き、 やがて時が経つにつれて、ためらいがちで手探りの信じられない過去の主張の上に、 すばらしい構造物を組み立てることを期待する。

 だがこれらの精神的現象、ひとつにまとまって見えるテレパシーの発見と死後存続の事実の確立は、 決して、研究者たちが発見し、主張した唯一の現象ではない。 
 問題の中でいちばん触知できず、また物質的な部分であるけれども、 ある点でもっとも興味深いものがある。 テレパシー――精神の中において活動する精神――が存在するだけでなく、 遠隔精神作用――身体と脳において活動する精神――がある、と時折主張されることである。
  
 身体上で活動する精神はよく知られているが、通常それは自分自身の身体で活動している。 だが異常な場合には、身体の持ち主が支配をゆるめた時に異質な精神が現れ、活動し、 一時的に生理学的機構を働かせる。
 たぶん通常の物質的伝達を通じて、催眠性の現象が示されるのだろう。 
 しかし潜在意識下では、意識は独特なやりかたによって身体上で活動できる。 医学的な証言によれば、火ぶくれや他のしるしを組織に作ったり、 解明されていない流儀で、通常のプロセスをもって干渉する。
 
 その主張は、それらの現象もまた遠隔地からなされうるものであり、 特別な努力によって、たぶん脳細胞さえも、 肉体を離れた精神――普段は特にその脳とつながっていない精神――から刺激され、 かくして、通常の人格には理解されていない事柄について、自動書記や入神談話で語ることができる、 というものである。

 さらに、ある状況で適当な有機体が存在するとき、 無機物さえも動かされると主張されている――重い物が持ち上げられ、 物があちこち運ばれ、また他の動きがなされる。
 それは筋肉によって簡単にできることであり、 例外的に他の方法でも、見かけ上可能なものではあるが。
 
 これらの奇妙な現象は、主に大陸の研究者たちによって探索されてきた。 医学的な訓練が、この自然な事実の真の発生を保証するのに必要な、 予防措置をとることを可能にしたのである。
 その作業仮説は、 物体は霊媒の身体からの一種の放出物――「エクトプラズム」と呼ばれるもの、 または押し出された原形質、 一時的に組織の外側にある部分であり、志を遂げると持ち場に戻るもの――によって 動かされる、というものである。
 
 これらの現象のいくつかは気味悪く見えるだろうが、有能な者による調査を要する。 それは生物学的、また恐らくは、私が通常やすらぎを感じる病理学的分野に属する。
 この奇妙な実際の物質的具現化は、 前にはただエーテルの中に存在していたものを、 物質的な形の領域に持ち込み、見せるために起こるのだろうと主張されている。
 また、ちょうど我々が受肉または物質化し、一世紀に満たないくらいの間物質と結びつくように、 これらも一時的に形成または物質化され、短い間――見て、触れて、 写真を撮るほどの間――姿を見せて消えるのだ、 とも言われている。

 科学がこういう不思議な現象に対して見て見ぬふりをし、耳をふさぐこと、 呈示するのが厄介で時に痛みを伴い、調査がとても難しいというのは驚くべきことだろうか?
 
 まったく驚くことはない。しかし、証拠は強力である。 これらの事柄を調査できる能力のある、訓練を積んだ方々は、 この事実を避けるのであれば責任をとってもらいたいものだ。
 新事実はみな、最初は奇妙に見えるものである。 認められた科学の本体に、こういうもののための場所はないように見える。
 
 私についていえば、直接得た知識は比較的小さいものなので、現時点で主張はしない。 しかし、いずれにせよテレキネシスなら、充分に私は見てきた。 目に見える接触がなくても物体の動きは起こりうる、とわかるほどに。
 そして私は、その物質化現象について証言した生理学者たちと解剖学者たちの主張に対して、 開かれた考え――いくつかの経験によって正当化された――を持つものである。

 エクトプラズムの物質的な形の、身体からの押し出しは、最初は不愉快な調査目的に思える。 我々自身の内臓が見かけ上魅力的ではないことを憶えておかねばならないが、 とにかくそれは役に立つし、そしてとにかく研究する者にとっては興味深いだろう。
 
 エクトプラズムとは、ある個人からしばらくの間放出されると主張される、 一種の組織化された細胞質の物質に与えられた、唯一の名称である。
 解明されていない並外れた性質をもっているように見え、 それ自身を成型したり、手や顔の像を形作ることができる。 まるで、通常内側で行われているのと同じ種類のプロセスを身体の外側で行うよう、 なんらかの潜在意識の知性に導かれているかのように。
 
 エクトプラズムの材料は、確かに食物から供給されたものである。 通常の身体の活動によって形成され、 血液によって、さまざまな組織のふさわしい場所へと運ばれる食物から。
 そして爪を形成するのか、髪なのか、 あるいは筋や目や身体の他の部分に寄与するのかを決めるものは、 食物それ自体ではなく、新細胞を形成する原理である。 実際、胎盤の援助によって、受精卵は完全に分かれた新しい組織を形成することができる――本来、 人は充分に驚異的な事実だと思うだろう。

 この同じ新細胞を形成する原理が、通常内側で作用しているのと同じように、 いつでも身体の外で作用することができるということはほとんど信用がなく、 正統派の科学からもまだ信じられていない。
 それが事実なのかそうでないのかという疑問は率直なものであり、 理論や先入観によらず、観察と実験によって答えられるべきである。
 
 こうした実験を請け負う者は、あらかじめ生理学と解剖学の訓練によって制限されるべきだ。 それは純粋に科学的な質問であり、もし肯定的に答えられるなら、 精神と物質の間の結合について、我々の知識を広げるに違いない。
 だがそうでない場合も、 死後存続や他の人類の大多数が興味を持つ事柄についての疑問に、 特に負うものはないように見えるだろう。
 また同時に、どんな事実も認められねばならない。 事実である以上、必ずそれ自身の重要性を持つ。 そして我々は、自然のなにものも粗野で穢れたものだと見なされるべきではないという意見に 高い信頼を寄せている。

 まだ他にも現象のグループがある。見たところ先のものほど不快ではなく、 クレヤボンス(透視)とルシディティ(清澄)という名で通っているもの―― 遠隔地で起きている出来事の知覚、封印された手紙や閉じられた本を読むこと、 隠された物体や地下の流れを探知すること。
 
 この種の力はある例外的な人々に所有されており、それに関する証拠は強力になりつつある。 その事実のいくぶんかはテレパシーや読心術で説明できるとは思えないものだ。
 だが、それはまだ確かではない。 より進んだ仮説が作られる前に、テレパシー仮説は最大限引き伸ばされねばならない。 我々は常に、可能な限りわずかな目的因に訴えたいと願っているのだから。
 
 書かれたり印刷されたりしたものは、かなり長い間、必ず誰かの頭の中にある。 実際の原稿が超常的手段によって直接読まれたと主張する前に、慎重であらねばならない。
 それには、我々が慣れておらず、それゆえに手がかりを持たない、いくつかの方法によった。 なお、我々がそのアイディアや芸術的知覚を刺激する方法に慣れたとはいえ、 すべてのこうした方法を試し尽くしたと想定するのは軽率だろう。それと反対の証拠に直面しながら。

 実に、精神と物質の間には、互いに影響しあうはたらきがあるようだ。
 思考、意志、そして目的によって、我々は物質を動かすことができる。 そして、話すことや書くことだけではなく、 あらかじめ精神の中で計画された橋や大聖堂のような偉大な建造物を、こうして作り出すのである。
 そして作り出された物質的配列は、芸術作品で言うなら、 その設計者が感じた感覚と感情のなにものかを、その後の精神の中から誘い出す力を持つ。
 これが芸術作品の全原理である。 それらは隠れた知性と情動の蓄えの止め金、または引き金である。
 
 ここで、他の、あらかじめそれほど整っていない物質の配列が、 我々に訴えかけることができるか否か、という疑問が起こる。
 
 精神的印象は、蓄音機や写真の原版のような器具によって、あらかじめ物事の中に蓄えられうる。 同様にして、激しい情動が物質の中に潜在的に蓄えられると考える人もいくらかいる。 そのため悲劇の起こった部屋は、持続的に影響力を発揮するのだ。 次の世代にも、またはむしろ、それを感じるほど感受性に優れた人なら誰にでも。
 
 この方法によっていつか、悲劇が再演されているように見える、 ある場所の奇妙な影響力を合理的に説明することができ、 そして、一般に「幽霊の出没」として知られているわけのわからない現象が、 迷信の領域から事実の領地へと片付けられることが望まれる。

 さまざまな種類の透視(クレヤボンスまたはルシディティ)、 あるいはリシェ教授によって「潜在感覚」と呼ばれたものによって示されたように、 潜在意識の力は多くの点において通常の空間の限界を超えており、 距離と不透明さは、この種の超常的知覚にとっては障壁とはならない。
 
 いくつかの、より進んだ事実が証言されている。 それらの事実は、調査を行った者の自然な懐疑をゆっくりと押しつぶし、 時折、時間の限界さえも超えられると考えるよう導く。 そのため過去だけでなく、また遠隔地だけでなく、 同様に未来での広がりの中での出来事をも、ぼんやりと識別することができるのだ。
 予感と予知の問題全体は、例外的であって難しい。 そして、その未来がどのくらい遠くに予定され、 その結果、起こりそうなことがらの概念が獲得されるのかが、 現在我々が答えられない時間の性質について疑問を提示する。

 我々は、無機的な世界、特に天文学で研究されている単純化された動きにおいては、 予知が可能であることを知っている。
 より広い知識、たとえば分子の動きと物質の構造などは、 我々が通常アクシデントと呼ぶ激変を予見し、 標準的な兆候がある前に災害と自然界の激変を予想することを可能にするかもしれない。
 
 宇宙は、原因と結果の規律正しい配列だと認めることができる。 そして現在の状態の全知識は、 すでに用意されたものの出現である未来を推測することを可能にするかもしれない。
 そういう広い知識を我々は所有していない。 しかし、もし、より高い知性が宇宙に存在するなら、――我々こそがもっとも高い知性だと仮定するのは 奇妙であろう――彼らは、我々が所有しないような情報の経路を持っているかもしれない。 そして、敏感な個人を通じて、彼らはその知識を伝えることができるのかもしれない。

 こうした考察の中で我々は、認められた科学の領域を超えて、ずっと遠くまで進んでしまっている。 もっと用心深く歩まねばならないのだが。
 しかし私は想像し、信じている。 我々は、宇宙の中で思ったほど孤立してはいないことを、ゆっくりと悟るだろうと。 我々は知性に取り巻かれているのだ。 我々がそれについてどんな正常な知識も持たないもの、 時折、間接的に物質とつながるにすぎない者たちに。
   
 そして私は、慎重に注意深く続けられる心霊現象の研究が、 物事との現在のような関わり合いをはるかに超えて我々を導き、 今はただ、ぼんやりとしてわけのわからない閃きしか捉えられない領域へと 案内するだろうと期待している。
  
 科学は実際、始まっている――ただ始まっただけだ――いや、ひょっとすると始まってすらいない――、 詩人や聖人や神秘家に長いこと影響を及ぼしてきた、あの霊の世界の実在性を発見するために。
 かの世界はインスピレーションの永遠の泉であり、 そして常に神学のテーマであり、宗教の原動力である。

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