まずは、セルビアのドラガ女王と彼女の兄弟達の暗殺に関する情報である。 私の友人であるリシェ教授が受け取ったものを、当時(1903年)私はあますところなく伝え聞いた。 簡単に言えば以下のような話である。
暗殺の行なわれた夜(もちろん全く知られていなかったし、予想もされなかったのだが)、
リシェと友人達はパリで交霊会をしており、
アルファベットの文字が叩音によって伝えられていた。
その文字は書き留められ、その後で解読された。
その時のメンバーや霊媒のことは、私はまったく知らない。
これは又聞きで伝えている話である。
ごく普通のメッセージがいくつか受信された後で、支配霊が変わり、緊迫したように思えた。
そして、非常に明快に、次の文字が叩音によって示された。
BANCALAMO
その上にリシェ教授は「ラテン語になりそうだ」とペンで注記している。
しかし続いて、一見して意味のない文字が、
RTGU
と綴られた。
そこで教授は興味を失ったが、しかし残りを機械的に書きとめた。
ETTEFAMILLE
これにはどんな意味も付随してなかった。
ただ、どこかの家族に関係があると思われた。
間もなく彼は、それが以下のような単語に分けられることに気付いた。
「BANCA LA MORT GUETTE FAMILLE」。
このメッセージは、1903年の6月10日水曜日の午後10時30分に受信された。
2日後、フランスの新聞は、ベオグラードで起きたアレクサンダー王とドラガ王妃と
彼女の兄弟達の残酷な殺害についての記事で埋め尽くされた。
そして、女王の死んで間もない父親の名前がPançaであると伝えられた。
その一族全員が暗殺によって根絶やしにされる危機にあった。
(フランス語のセディック付きのcは、セルビア語のその文字に最も近いものだろう。
フランス語にはこれと完全に呼応する文字はなく、sとtsの中間、そしてzとtzの中間で発音するように私は教わった。)
リシェは、この名前を6月12日の夕刊に見てたいへん驚き、
それまで知らなかった「Panca」という名前――しばしば「Panka」とも綴られる――と、
不思議なメッセージの冒頭のBancaという未知の単語との相似に衝撃を受けた。
唯一の実質的間違いは、BとPの混同である。
したがって、教授がこのメッセージをPancaからの、またはPancaに関わるひとつの電送通信文として読むと、
こういう意味になる。
今や、死が彼の家族を待ちながら潜んで、または横たわっている。
「La mort guette famille.」
調査を進め、この件を追求するうちに、リシェは発見した。
殺害は真夜中のちょっと過ぎに行われたこと、したがって、交霊会の時点では起きていなかったことを。
そして、パリでメッセージを受け取った時間、つまり1903年の6月10日の午後10時30分は、
暗殺者たちがその定められた使命のために、セルビア、ベオグラードのクーロンヌ・ホテルを後にした時間に近いはずだということを。
その頃、「サマータイム」はなかった。
実際に、パリの午後10時30分は、セルビアの真夜中だった。
それゆえ、リシェが指摘したように、「guette」という言葉は非常に適切だった。
これは、ネズミを待ち伏せして横になっている猫の構えの一種だ。
数時間後だったらそれほどふさわしくないし、同様に、数時間前だったとするとちっとも適切でない。
殺害は、ミハトビッチの歴史(『セルビアの悲劇』1906年)によると、
水曜日の真夜中近く、或いは、1903年6月11日木曜朝の「夜明けの少し前」に起きた。
1903年6月12日金曜日のザ・タイムズによると「10時30分から11日未明の2時の間」である。
パリにこのニュースが届いたのは、リシェが後ほど発見したように、木曜日の午後2時だった。
しかし彼はその詳細を金曜日まで読まなかった。
Panca一家が全滅の危機にいるというこの通信が、
なぜ、パリにいる未知のそして関心もない人達に向けてなされたのか、リシェは説明しようとはしない。
我々が知っているのはただ、その文字の配列はその特別な機会に受け取ったこと、
そして、後で、理解できる解釈が可能だったということだ。
リシェはこれを単なる、「2000キロメートルの距離を越えた潜在感覚」として扱っている。
生理学的な印象への過敏さを暗示する、その専門用語がこの出来事にどれほど当てはめられるのか、私にはわからないが。
しかし、心霊主義的な仮定の上に、――リシェではないが、私はそれを受け入れたい気がしている――マイヤース、
或いは「向こう側」にいる心霊研究協会の誰かが、超常的な力を示せる機会を見つけたということは想像できる。
彼の友人シャルル・リシェに向けて綴られていた断片的なメッセージの間に、断続的で不明瞭ではあるが、
最後には理解され興味を喚起するであろうひとつの文を突然挿入することによって。
この挿話は(仮定的かつ不必要な説明の試みはさておき)、
リシェ教授が当時私に話してくれたことの鮮明な回想である。
彼はひどく心を動かされていた。特に時間の符合について。
確かに、そのとき死は多くの家族を待ち伏せしていただろう。
しかしその家族が不明瞭だったら、このようなメッセージは無益であった。
意図された特別な家族はBancaという名前によってのみ特定された。
それは正確ではないが、Pança或いはPancaのことだった。
この出来事を教授が出版したものによると
(初期の版には誤植があったので、彼の『心霊学概論』204ページに再録されている。
また『心霊研究の30年』167ページに訳されている)、
彼は、確率論に基づいて、伴っている間違いの帰するところについて論じている。
そして、正確なメッセージにおけるその名前に近づく糸口が偶然のせいだったことを信じ難いとみなしている。
通常の知識の欠如について言えば、それは申し分なかった。
当時、パリにいた誰ひとり、アレクサンダー王とドラガ王妃に対する秘密の筋書きを知らなかった。
そして交霊会の出席者5名のうち、誰ひとりバルカンの国々に関わりあってなかったし、
恐らくドラガ女王についてはほとんど聞いたことさえなかったろう。
そのメッセージは――もしもそれがメッセージだったとしたら――間違いなく、その事件が知られる前に伝えられた。
それが「予言」という項目ではなく、「現在の事件」という項目に正しく編入されるにしても。
Pançaの家族全員がその時、差し迫った危険の中にいた。
ドラガ妃と彼女の2人の兄弟は実際に殺された。2人の姉妹はどうにか逃げおおせたことが判明したけれども。
上述のメッセージはラップ音によって明白に受信された。
しかし、同様の出来事を、私が内輪の友人を通じて受信した時のことを語らねばならない。
当事者の2名の女性の内の1人は、ラップ音よりもっと基本的な方法で、
すなわち、小さなテーブルに片手を載せ、その非常に素早い傾きによって、文を綴る能力をもっていた。
彼女がアルファベットを順に唱え、意図された文字のところでやめると、すぐにもう1人の女性によって書き留められる。
私が出席していれば私が書き留める時もある。
一連の文字の意味はしばしばその場では明白でないが――明白な場合もある――この一見骨の折れる手順によって一貫性が保たれているというのは、
驚くべき点だ。
しかしながら、熟練すればとても容易であり、その進行はそれほど鈍いものではない。
しばしば通信者たち数名が順に並び、それぞれが自分の言わねばならないことを言って、自身の名前を伝えてから次の人に順番を譲った。
我々はよく、最後に名前が伝えられるまでは、誰からのメッセージだかわからなかった。
それでも、常連の通信者たちはその態度や話しぶりで見分けがついた。
マイヤースが通信者の時は、霊媒はしめつけられるような緊張を感じるが、他の人達の場合はもっとくつろいだ様子であった。
長い年月にわたってパワーを持っていたこの素人霊媒の女性の場合は、
通信者からの支配はしばしば、小さなテーブルを巧みに扱う腕に直接及ぶように思われた。
したがって、何が言われているかを、彼女の心はほとんど悟らないし、めったに悟ろうともしない。
文字が書き留められて、それぞれの文が完成されると、その意味が記録者に明らかになる。
続く記録は受信した通りに、正確に複写される。そこかしこに、簡潔にするための些細な省略はあるが。
次の出来事は、ヒンデンブルグのドイツ共和国大統領選挙に関わる、たいへん短くてシンプルなものだ。
1925年4月26日、日曜の夕方、私は妻と前述の2名のイギリス人の女友達と一緒にパリにいて、
テーブルの傾きを使ってレイモンドと内輪の会話をしていた。
社会的な事件のことは一切考えず、少なくともドイツで起きていることなぞには全く関心がなかった。
午後10時、レイモンドが突然中断して、綴った。
「ヒンデンブルグが政権を握るぞ。面白そうだから見に行くよ。おやすみ、R.L」
翌日(1925年4月27日、月曜日)、コンチネンタル・デイリー・メールに挿し込まれた重大発表はこう伝えた。
「今朝1時18分のベルリン発ロイター通信は、ヒンデンブルグが当選したと伝えている。」
以下のエピソードは、心霊研究協会がカナダの会員から受け取ったものだ。
その会員は新聞の記事に興味を惹かれ、事件の起きた州(ノース・カロライナ)に在住する弁護士に、
彼の代わりに事実を調べてくれと指示した。
事件はすでに、訴訟で証言されており、したがって、それらは2度の機会にわたって、
証拠を綿密に調べて比較考察する訓練を受けた専門家による吟味を経た。
やがて、英国心霊研究協会は、宣誓をされた確かな書類を受け取った。
以下の記述の一部はそれらの書類の摘要であり、一部は引用である。
遺言者ジェームズ・L・チャッフィンは、ノース・カロライナ州デイヴィー郡の農夫だった。 既婚者で、年の順に、ジョン・A・チャッフィン、ジェームズ・ピンクニー・チャッフィン、 マーシャル・A・チャッフィン、アブナー・コロンブス・チャッフィンという4人の息子がいた。
1905年の11月16日、遺言者は遺言書を作成した。 正式に、2名の立会人が証人となった。 それによって彼は三男のマーシャルを単独の遺言執行者に任命し、農場を与えた。 未亡人と残りの息子達3名には生活のあてが残されなかった。
16年後、1921年9月7日、遺言者は転倒が原因で死亡した。 同年9月24日、彼の三男マーシャルは、1905年の遺言の検認を得た。 母親と残りの息子達3名は、この遺言に意義を申し立てなかった。 そうする正当な理由がないとわかっていたからだ。 しかしその後、1925年、奇妙な出来事がいくつか起きた。それらは次のように語られる。
遺言者の次男ジェームズ・ピンクニー・チャッフィンの供述書からの抜粋
父が1905年のものより後に遺言書を作ったと口にしたのを、私は一度も聴いたことがなかった。
1925年の6月のことだったと思う。
非常に生々しい夢をみるようになった。
私のベッドのかたわらに父が現れるのだが、何もしゃべりはしなかった。
少し後の、同じ6月の下旬だったと思う。
父は私の枕元に再び現れた。
生前父が着ていたのをしばしば目にした黒いオーバーコートを着ていた。
彼のコートだということを私は知っていた。
今度は父のスピリットが私に話しかけた。
彼はオーバーコートをこんなふうに掴んでから引っ込めて言った。
「わしのオーバーコートのポケットの中に、遺言書が見つかるだろう。」
そして消えた。
翌朝私は、父のスピリットがなにかの間違いを説明するために、私を訪れてくれたことを心から確信しながら目覚めた。
母のもとへ行き、オーバーコートを捜したが、なかった。
母は、あのオーバーコートは私の兄ジョンにあげたのだと言った。
ジョンは、私の家から約20マイル北西にあるヤドキン郡に住んでいる。
7月6日、月曜日のことだったと思う。
この後、最後に述べる出来事が続くのだが、私はヤドキン郡の兄の家へ行ってコートを見つけた。
内ポケットを調べると、裏地が縫い合わされているのに気付いた。
私はすぐに縫い目を切り、紐で結わえてある小さな巻紙を見つけた。
そこには父の自筆で、次の言葉だけが書かれていた。
「わしの父ちゃんの古い聖書の中の創世記第二十七章を読め。」
この時点で私は、この謎は解決するはずだと確信を持ったので、
立会人なしでは、母の家に古い聖書を調べるために行きたくはなかった。
そこで、隣人のトーマス・ブラックウェルダー氏を誘って同行してもらった。
私の娘とブラックウェルダー氏の娘も立ち会った。
母の家に到着して、我々は古い聖書を見つけるまで、かなりの時間捜しまわった。
結局、聖書は、2階の部屋にあった大机の一番上の抽斗の中で見つかった。
ひどくボロボロで、取り出した時に3つに分解して落ちてしまった。
ブラックウェルダー氏が、創世記の含まれたひとかたまりを拾い上げ、
創世記第二十七章のところまでページをめくった。
そこには、2枚のページが折ってある箇所があった。
左側のページは右に畳まれ、右側のページは左に畳まれ、ひとつのポケットを形作っていた。
そしてブラックウェルダー氏はその中に遺言書を発見した。
すなわち彼が見つけたのは、1919年1月16日付の非公式に口述された文書であり、次のように続いていた。
『創世記第二十七章を読んだ後、私ことジェームズ・L・チャッフィンは、遺言書を作成することとする。
それがこれである。
私の遺体を見苦しくない埋葬に附した後、
私の僅かな財産が4人の息子の間で――もし、私の死の際に彼らが生きていれば――、公平に分けられることを私は望む。
動産も不動産も平等に分配されることを。
もしも息子らが生きていなければ、彼らの子供たちに分け前をやりなさい。
そして、まだお前らの母さんが存命中であるなら、お前ら皆が母さんの面倒をみなければならない。
これが私の遺言である。私の手が証明し捺印する。
ジェームズ・L・チャッフィン、本日1919年1月16日』
この2番目の遺言書には立会人がなかったが、実際に彼の自筆として挙げられた十分な証拠の上に、 隅から隅まで遺言者自身の手で書かれているので、ノース・カロライナ州の法律によれば、有効であった。
遺言者はこの遺言を書き上げた後、聖書の2枚のページの間に、
ページを折り重ねて一種のポケットが出来るようにして、しまっておいたに違いない。
聖書は、以前は彼の父親ネイサン・S・チャッフィン牧師の持ち物であった、家族に伝わる古いものだった。
折られたページは創世記第二十七章が書かれた箇所だった。
それは弟のヤコブがどのように兄エサウに取って代わって、相続権と父親の祝福を手に入れたかを語っている。
最初の遺言書のもとでの単独の受益者が弟だったことは、記憶されねばならない。
合意による判決
故J・L・チャッフィンの遺言書に関して
ノース・カロライナ州、デイヴィー郡
高等法廷において
1925年12月の開廷期
判決
この訴訟が上程されて審理され、下記の点が陪審に具申された。
「1919年1月16日付の遺言書のすべての部分は故J・L・チャッフィンの自筆のものか?」
答 ――「はい。」
そして陪審は上述の点を肯定し、
(E・H・モーリス、A・H・プライス、J・C・バズビーら原告の代理人の申請により)命令を下し、
判決を言い渡して宣告した。
故ジェームズ・L・チャッフィンの上述の遺言書は、デイヴィー郡の高等法廷の書記の事務所において、
遺言台帳の中に記録されるべきである。
そして、1905年11月16日付けの、1921年9月24日に検認された、
故J・L・チャッフィンの遺言であると主張されている、遺言台帳番号2の579ページは、
ここに取り消し及び撤回され、無効となり破棄されると。
裁判が始まったとき、本来の法定相続人のマーシャルは既に死んでいたが、
マーシャルの未亡人と息子は2番目の遺言書への異議申立てをしようとした。
しかしながら、昼食のための休廷の際に、彼らは2番目の遺言書を見せられた。
10名の証人が、2番目の遺言書が遺言者の自筆によるものだということを証言しようとしていた。
未亡人と息子自身も、それを見るなりそのことを認めたらしく、ともかく彼らは直ちに異議を取り下げた。
ジェームズ・ピンクニー・チャッフィン氏の供述書は以下のように結ばれている。
1925年12月、チャッフィン対チャッフィンの裁判の1週間ほど前に、父は再び私のもとに現れて、言った。
「わしの古い遺言書はどこだ?」
そしてひどく腹立たしげに見えた。
このことから私は裁判に勝つだろうことを信じた。そして実際にそうなった。
翌朝、私は弁護士にこの訪問のことを話した。
友人の多くは、生きている人間が死者とコミュニケーションをとることが可能だとは信じていない。 しかし私は、それらの数回の機会に父が実際に私の元に現れたことを確信しているし、生涯それを信じ続けるだろう。
事実に関して確証的に記録された口供書は続く。
(1927年11月心霊研究協会会報517ページ及びそれ以降を参照のこと)
私は隣人(ブラックウェルダー氏)の供述書だけを引用しよう。
私の名前はトーマス・A・ブラックウェルダー、38才でH・H・ブラックウェルダーの息子だ。
私の家はキャリハン区の農場の上、1921年にJas・L・チャッフィンが死んだ場所からは1マイルくらいのところにある。
1925年の7月6日のことだったと思うが、
Jas・L・チャッフィンの息子であり、隣人であるJ・P・チャッフィン氏が私の家に来て、彼の母親の家に同行してくれと頼んだ。
そして同時に、彼の父親が夢に現れて、どうしたら遺言書を見つけられるかを教えたのだと言った。
チャッフィン氏は、父親は4年くらい前に死んだこと、
そして彼の夢に現れて、父親の古いオーバーコートの胸ポケットを見なければいけない、
そこに重要なものが見つかるだろう、と教えてくれたことを、私に語った。
チャッフィン氏はさらに、オーバーコートを調べたら、父親の自筆の一片の紙を見つけたと語り、
私に、古い聖書を調べるために、母親のところについて来て欲しいと言った。
私は彼と一緒に行き、聖書を探した。
暫く捜すと、2階の大机の抽斗の中に聖書が見つかった。
それを取り出したが、あまりに古くて、3つに分かれてしまった。
私はその内のひとつを手に取った。チャッフィン氏が別の2つを手に取った。
だが、創世記はたまたま私が手に取った部分に含まれていて、私は第二十七章が現れるまでページをめくった。
そして、2枚のページが内側へ折られているのを発見した。
その2枚のページにはさまれて、Jas・L・チャッフィンの遺言だという文書があった。