それは、1913年5月6日、
私の妻ロッジ夫人が、ロンドンのエガートン・ガーデンズのアパートで
友人のクラリッサ・マイルズ嬢とお茶を飲んでいたときのことだった。
余興のつもりで、マイルズ嬢は、透視の出来るプロを招いていた。
彼女はマダム・ヴェーラ(真実)の名前で通っていて、なんらトランス状態に入ることなしに、
いわゆる「リーディング」あるいは直感的な語りができる。
なんの重大性も特別な関心もなく、その予言は語られた。
しかし私の妻は速記でなくてもノートをとれたので、
後に関心を惹かれる場合に備えて、そんな出来事を書き留めておくことに慣れていた。
彼女のノートはとても大雑把だったが、
後に我々の息子レイモンドがそれを見て、いくらか興味を持った。
なぜなら、イタリアについて何か言われていて、彼はその年のもっと前に、イタリアへ友人を訪ねに行っていたのだ。
これらの備忘録の中から、話の最後にマダム・ヴェーラが言ったことの記録を抜粋しよう。
元々のメモ書きが逐語的だったとは思わない。記録としてはかなり気まぐれで支離滅裂なものだった。
目ぼしい点だけが書き留められたのだと私は推測している。
いずれにせよ、これはまさにその日に書き留められ、レイモンドによって、戦争の前の1913年にそっくり書き移されたものである。
想像上の家の多彩な描写に、家族はなかなか興味をひかれた。
そして近所のどれかの家に当てはめてみようとしたが、うまくいかなかった。
教会の扉は、それが文字通りの意味なら、大きな特色に思えた。
しかし、どの特徴も、我々がかつて住んだようなどの家にも当てはまらないようだった。
若い頃に、アーノルド・ベネット氏の著書『五つの町』の近所に住んで以来、
私はいつもロンドンかリヴァプールかバーミンガム、即ち、近代的大学のある場所に住んできた。
そこで生計を立て、教育に携わってきたのだから。
私が田舎に引きこもるなどということはまずありそうにもなかった。
そして、描写された家は奥深い田舎にある家のように思えた。
このエピソードを理解するために必要な伝記的細部をいくらか伝えるため、ここで話を数年とばさなければいけない。 1914年我々はオーストラリアへ英国学術協会と共に行った。戦争が勃発した。レイモンドは1915年に戦死した。
それからずっと後の1919年、私はバーミンガム大学の学長を退こうとしていた。
そしてそれにしたがって、小さな家か田舎家を注意して捜していた。
エッジバストンのマリーモントの比較的広い持ち家を手放して、引退生活を送るために。
レイモンド(今はあちらの世界にいる)は、我々が「家捜し」と称しているこのことに興味を示した。
母親が時折交霊会をしていた、レナード夫人のような数名の霊媒を通じて。
そして、母親が見た幾つかの家の知識を示した。
例えば、彼はサービス・ハッチ、或いは、穴を描写した。
それは、クロウボローの近くの家の食堂と居間の間の壁にあり、彼女が家屋斡旋人から聞かされて見てきた家だ。
1919年の5月、彼はダチェット村のひとつについて検討した。
しかし彼は、もっといい家があると考え、マリーモントから1年間は引っ越さない方がいいとほのめかした。
結局、我々はハムステッド・ガーデン郊外の小さいラチェンズ・ハウスに決定し、その賃貸契約に関して交渉した。
しかしながらレイモンドは、それにあまり満足していなかった。
彼は言った。平和と静けさのためには壁が余りに薄すぎる、それに、私の本のための部屋がない、と。
確かにその通りだった。それにもかかわらず、我々はその家を借りる手配をした。
その秋の初め(1919年7月3日)妻がフランスのヴィシーに数週間行った。
彼女がいない間に、いつもの通信ルートから、何度目かのメッセージがきた。
それとはまったく関係なく、彼女が不在の7月の間に、私はグレンコナー夫妻への数日間の定期的な訪問を行なった。
彼らはその時、我々がしばしば行ったスコットランドの国境地帯のグレンにはおらず、
ウィルスフォード荘園のもっと小さい家にいた。
そこはソールズベリー平原のエイヴォン谷の中の、ソールズベリーから北に8〜9マイルのところにあった。
平原は、知らない人が期待するほど平らではなく、白亜の丘の低い連なりからなる群落あり、
ウィルトシャーの南部に広がっていた。
そして5つの川が、幅広に広がった谷から一点に集まってきていた。伸ばした手の指のように。
そして、南のソールズベリー近くの手首の所でひとつになる。
それらの川(エブル、ブールン、エイヴォン、ウィリー、ナダー)の中で、
エイヴォンが他の川をクライストチャーチ、ハンツの海まで導いている川だった。
その水が流れている水辺の草地の近くや、乾燥した白亜の丘の上には、ウィルスフォード荘園や、他の数軒の家が建っていた。
ある日の午後、グレンコナー卿が私を散歩に誘った。
そして、歩いている途中で彼は、エイヴォン谷の古い農家をちょっとのぞいた。
それは、彼が最近アントロバス・エイムズベリー不動産から購入した土地にあり、
北側で彼自身の土地に隣接していた。
彼は何気なく言った。いくつかの改築を現在行なっていて、ポーチが出来あがったばかりだということを。
彼はこの土地と家を戦争中に購入し、ソールズベリー平原で軍務についている士官たちに貸した。
そして、その目的のために家具を取り付けた。
彼は数枚の古い絵画、家族の肖像画、スポーツの版画や同様の品々を飾っていた。
今はいくつかの増築に忙殺されていて、
そのうちのひとつが、比較的最近変えられた正面の扉を、家の北側の風雨から守るために、ポーチをつけることだった。
大工達はほとんど作業を終えており、管理人の手中にあった。
納屋と家庭菜園があったが、ほとんど芝生はなく、家畜のための藁の置き場だったものがあるだけだった。
それを彼は一杯にしつつあり、概して彼は、自分がそうしたいと思うように環境を整えつつあった。
しかし彼が言うには、彼は借家人候補に対してなかなか気難しかった。
こんなに近くの隣人になるのだし(たったの半マイルしか離れていない、隣接する土地なのだ)、
その上、ここに住みたがる人の多くは、700エーカーもの提携農地での狩りや釣りをする権利をも欲しがるが、
それは彼がさせたくないことだった。
なんとなく我々は家を越えて一緒に行き、私はその質朴さにかなり魅了されていた。
特にその取り囲むような「白亜質の高原」や、ソールズベリー平原の高みから見渡す美しいエイヴォン谷の眺望に。
歩きながら彼に言ったのを、私は覚えている。
「我々に貸さないかい? 私は釣りも狩猟もやりたいとは思わないよ。」
彼はこう答えた。
「それは願ってもないことだ。だが、君のためにはならないよ。
駅から遠過ぎる、それに恐らくロンドンからもね。」
私もおおいに納得した。田舎に隠居するつもりはなかったから。
しかしながら、私の娘たちの中の1人もまた、私の滞在中にウィルスフォード荘園を訪ねてきた。
私は彼女を連れて、その家と付近の草丘を見に行った。
我々は2人ともそれに非常に魅せられた。
娘は、母親も気に入るに違いないと言った。
母親はいつも、ブライトン近くのサセックスの景色に惚れこんでいたのだから。
そういうわけで、ヴィシーへ何度か電報を打った後、私は、もしも屋根を持ち上げることによって、
屋根裏に図書室を作ることが出来るなら、それを選ぶことを決めた。
その希望は呑まれ、やがて、作業が開始された。
一方で私はハムステッド・ガーデン郊外の農家をキャンセルしたが、それは造作もないことだった。
そして、大体6ヶ月後、マリーモントが人手に渡った後の引越しに先だってノーマントン・ハウスの各部屋の測定をした。
実際、我々が入居したのは、その年初頭の私の長いアメリカ講演旅行の後の、1920年秋のことだった。
引っ越して落ち着いた後で、我々はレイモンドの書類箱を調べていて、古い書類を見つけた。
7年以上前の、レイモンドの母親とマダム・ヴェーラとの私的な交霊会の記録をそっくり書き写したものだ。
我々はすぐに、交霊会の終わりになされた、家の描写に衝撃を受けた。
それは、これまで見た他のどの家にも当てはまらなかったのに、この家にほとんど正確に当てはまったことにその時気付いたのだ。
駅からは長い道のり(およそ九マイル)である。
エイムズベリー駅――バルフォード・キャンプへの支線にある――は3マイルしか離れていないのだが、
我々が実際に使う本線の唯一の駅はソールズベリーなのだ。
エイヴォン川は近くを流れている。
そしてその一部または支流が、果樹園の低部を流れており、
時たま起こる氾濫は、幾つかのハッチによって制御されている。
食堂としても使われる玄関ホールには、樫の羽目板が少々ある。
この部屋へは、正面のドアから直接、3つの下り段を経て通じている。
したがって部屋の床は地面よりも下にある。
珍しい特徴だ。恐らく、特別高くするために、しばらく前に手配されたのだろう。
この空間が農具の倉庫(昔の住人が記憶しているように)の役目を終えて居間になった時に。
ホールは長く、低くて狭い(40フィート×13フィート、高さ9フィート)。
その天井には、大部分がすりへった古い樫の木の梁。何世紀もそこにあったに違いない。
窓と窓の間には樫の羽目板、樫のよろい戸もある。
注目に値するのは、非常に古い樫の階段だ。それはこのホールから階上へと通じている。
そして、最近、古い垂木を取り去って天井を持ち上げ、作られた図書室の中へと続く。
我々が借家に入った時、数枚の古い絵も家の中にあった。
我々が完全に新居に落ち着くまで、いくつかの家具とともに残しておいてくれたのだ。
居間の外にも段があった。そして上方の廊下に沿って、思いがけない場所へ出る。
その上で訪問客は時たまつまづく。
客の1人が思わず私に言ったほどだ。
「この家は上りの階段と下りの階段ばかりに思えるわ」
それは誇張はあるにせよ、予言者が用いた言い回しに似ている。
家庭菜園は正面扉に面しており、半分は白亜質の塀で囲まれていた。
それはウィルトシャーの流儀にならって草でふいてあった。
この白亜質の泥灰土の塀は、石のような外観をもっていた。
最も注目すべき一致点は、玄関を守るべく最近作られたポーチに本物の教会の扉がついていたことだ。
明らかに古い扉で、かなりの厚み(均一に2と3/4インチ)があった。
全体に飾りの鋲かボルトが散りばめられていた。
長いちょうつがい、2つのがっしりしたねじ釘、そして特製のかんぬきがついていた。
この特徴について私は家主に尋ね、次のことがわかった。
家の北側の車道に向かって通じている正面のドアを囲んで、新しい石製ポーチが作られた後で、
このポーチは風雨に対してあまりに開放的であると感じられた。
そこでグレンコナー夫人は、改築中に訪れた際、棟梁に言った。
ポーチに2つ目のまたは外側の扉をつけて、玄関を改良してくれと。
更に、その目的で使える扉については心当たりがあると彼女は言った。
それはウィルスフォード荘園の納屋の中にあった。
ウィルスフォードの元の持ち主によって教会が修繕されている間、おそらくしまわれていたのだ。
結果的に、この古い見事な扉が運ばれて、ノーマントン・ハウスのポーチに取り付けられた。
またそれは斑点で汚れており、
しまわれていた数年の間に、ペンキ屋がこの扉を何かに使ったせいだということは明らかだった。
しかし、この扉が戦後初めて扉としてよみがえったことは注目すべきである。
1913年の予言あるいはヴィジョンからずっと後のことだ。
その当時は、ポーチさえ存在しておらず、この家はグレンコナー家の所有ではなかった。
彼はノーマントンの地所を1915年の9月に購入したのだ。
おそらく付け加えるべきだろうが、1919年にノーマントン・ハウスへの改築が行なわれていた時、
グレンコナー夫妻は予言についての知識は全く何もなかった。
また、その予言は、私たちの心にも長いこと思い浮かばなかった。
ポーチと細かな改築は、我々がその家を見たり、家のことを何か知る前に、行なわれて終了したのだ。
屋根は1920年初めに取り外されて、屋根裏の図書室が増築された。
偶然にも、予言の中で言及されたほかのほとんどすべての特徴が、
非常に正確に、この家に当てはめることが出来たことは、信じ難いほどだ。
さらに一層信じ難く思えるのは、細かく描写されたこの家の玄関ポーチ内に教会の扉が存在するということが、
扉がそこに設置される前に予見されたということだ! この出来事を説明しようと、へたな試みはしないほうがよかろう。
他の小さな細部について――
中にテーブルや椅子がある、ガラス窓をはめた、あずまやが家の南側にあるが、それはほとんど問題にされない。
私自身が、小さな温室とあわせて、そこに設置したのだから。
私は本当に、それをほのめかす言及をこれっぽっちも考えたり思い出したりすることなしに、それをやったのだ。
予言は「2つと似た部屋はない」としている。似通っている印象を人々に与えるかもしれない部屋は2つだけで、
それらは小さな居間であり、応接室である。
どちらも一階にあり、南を向いている。
ざっと同じ大きさであるが、相違点がある。
片方の部屋には2つの扉があるが、もう片方にはひとつしかない。
片方は床が上げてあって、一段上るので、もう片方の部屋よりも暖かい。
片方の部屋の煙突の抱き石は並外れて大きい。
2つの部屋はかなり異なったふうに家具が据えられている。
長く低く建てられたこの家の外観は、屋根が持ち上げられて階上が増築されるまでは、もっと顕著であった。
立派な長い納屋が2軒ある。反対の側は芝生だ。
見る場所によっては家の一部のように思われ、印象的な特徴だ。
家は高台にはない。それは本当だ。
水辺の流れの干潟の上に、よく建てられているだけだ。
ウィルトシャー郡はなだらかに小高く、起伏がある。
しかしそれは、すべてのダウンランドが丘陵性だという意味においてのみだ。
斜面を半マイル、大体230フィート上へのぼるのはたやすいことだ。
片側からは、この家をエイヴォン谷に、
そして反対側からは、ストーンヘンジ(一マイル離れている)の方向へ、平原のもっと平らな部分を見下ろせる。
最後のものは、もっともらしい批評家からは誤りだと非難される特色にすぎないだろう。
それでも、最近アメリカの女性詩人が、短い訪問の後に、
「ウィルトシャー丘陵の下方の灰色の家」に友好的な挨拶を送ったことは言及する価値があろう。
私の友人、グレイ子爵夫人は、それまではグレンコナー夫人と記されてきたが、 この出来事に関連して、彼女の名前を出すことを承諾してくれた。 そして、更なる情報を与えてくれた。 彼女自身、長男エドワード・ウィンダム・テナントを大戦で亡くしている。 彼について彼女は回想録を書いている。
『エドワード・ウィンダム・テナント、第四大隊近衛歩兵第一連隊』(ボドリー・ヘッド社から出版された)。
その中で彼は、ビムという親しい家族の間の名前で呼ばれている。
そして彼女が時たま、評判のいい霊媒を通じて彼と通信していることはよく知られている。
彼女は公表を承諾してくれているのだが、
我々が借家人として来た後に話した時、彼女もまた、この符合になおさら驚いたのだ。
それは、数ヶ月前にレナード夫人との交霊会で彼女が書きとめた覚え書のせいだった。
それらはこの件に関しての暗示を含んでいたように今では思われる。
彼女がその時の交霊会で記録した覚え書には、こういう一節が含まれている。
その当時、グレンコナー卿の所有する別の家が、今にも貸されるところだった。
そして幾つかの大きい納屋の屋根全体のふき替えが進行中だった。
したがってこの言及はそれを暗示しているのだと理解された。
その時にはあまり説得力がなかったにしても。
後日グレイ夫人は、後に起こった出来事に照らしてみれば、
これらの暗示と、同じような別の暗示は、ビムの父親と彼女自身にとって十分に明瞭なものになったと語った。
ロンドン近郊でのレナード夫人との後の交霊会で、 レイモンドは、彼が意図していたその家を我々が得たことの喜びを表現し、 それが母親の身体に合うこと、うまくいくことを願った。そして、そのようになった。
レイモンドに関する限り、このエピソード全体は、
レイモンドが現実の出来事についての知識を示し、助けになってくれた沢山の出来事の内のひとつにすぎない。
そしてこのエピソードは単純で、十分に説明できる。
しかし、真実夫人の予知は、もしそれが予知だったなら、どう説明できるだろう。
それは、我々が近代的な大学都市の近辺から移り住むことはもちろん、
田舎に暮らすことなどこれっぽっちも考えていなかった時に告げられたのだ。
そしてとりわけ、当時は別の人が所有していて、
もっぱら農家として使われていた家の細部をどうして予見することが出来たのだろう。私にはわからない。
特にわからないのは、古い絵の存在の予見だ。
それらは私達のために、当然家具の入っていない家の中にあった。
実際それは、戦争中にグレンコナー卿によって、
たまたま家を貸した士官たちのために、より親しみやすい家になるようにと飾られたのだから。
また、教会の扉の予見も、私にはちっとも理解できない。
それは1913年には実際、誰の心の中にも、存在しなかった。
半マイル離れた納屋、または子馬小屋のなかにあったのだ。
私はただ漠然と、これらのことを実現させるための、なんらかの向こう側の「計画」を推測するだけだ。
どこかよそでも述べたように、現在からの推論と未来のための計画は、
通常の生活雑事における予言の、我々が通常用いる2つの予言方法である。
詳説する価値があると思われるひとつの興味深い点がある。
それについて私はすでに言及してある。
すなわち、先を見越しての確かな、このエピソードへの明白な暗示が、
1919年5月のレナード夫人との交霊会においてグレンコナー夫人によって書きとめられたことだ。
これらの言及は、取引全体よりずっと以前のことだったので、その時点では理解されなかった。
我々はその家を一度も見たり聞いたりしたことがなかったし、
他の誰かが我々とその家を結びつけて考え始めることさえなかった。
グレンコナー卿との最初の散歩までは。
私の日記を見ると、それは1919年7月12日のことだった。
グレイ夫人は、1919年5月1日のレナード夫人との交霊会の記録を私に見せてくれた。
そしてこの記録から、彼女は以下のことを選んで書き写した。