第4章d 会話
死後の生活についての最近の会話の実例と、身元証明のちょっとしたテスト

死が人間を襲う時、彼の死すべき部分は滅びると考えられる。 しかし不死の部分は、死の接近に身を引き、安全かつ健全に残される。 疑いなく、魂は不死で不滅であり、我々の魂は別の世界で真に存在するのだ。
――『パイドン』
前置き

 私が思い出そうとしている4番目のエピソードは、一風変わったものだ。
 単にレイモンドと私の会話のひとつであり、 あちら側の人々とその死後の状態に関する話を示すにすぎないが、 しかしこれは、彼らが時々私達に与えることが可能な援助 ――実際、あちら側とこちら側でとりかわすことができる、相互の助け合いについてのものである。

 これらの対話はたいてい、ある人物の協力と補助によって導かれる。
 私は、彼が旧友のF・W・H・マイヤース(訳注 生前は古典文学者)であると確信している。 レイモンドは彼から多くのことを学び、一種の助手として彼に協力している。 マイヤース自身も、時折口をはさんで説明したり、詳しい解説をすることがある。 (会話部分の記録は後述するが、先になんらかの説明をしておかねばなるまい。)

 私は、マイヤースが生前、ヴェールを通して、あるいは障壁を乗り越えての、相互援助と霊的交渉という考えに興味をもっていたことを知っている。 そしてまた、彼が1度か2度、ヘブル書の書簡第十一章の、終わりの原文に言及したことも知っている。
 それは、「我々なしで彼らが全うされることはない」という意味合いで、時おり、ブルガタ聖書のラテン語訳の形で引用される。
 そしてあるとき、進行中の対話が、それに関係があるところまで及んだように思えた。 私は、それを引用して、マイヤースが何と言うかをみるよい機会だと考えた。

 媒介者はフェダだ。(※訳注 フェダは霊媒レナード夫人の曾祖母にあたるインド女性の愛称。ごく若いうちに他界したという。)
 彼女の口を通して、何か複雑で未知のものを得るのは容易ではない。 そのときも、彼女はできる限りの音を発したが、それは私の知っている言葉ではなかった。
 
 多分マイヤースには聞こえただろう。 私は彼が聴いているかを尋ね、そして先刻の会話について言った。
「Ut non sine nobis consummarentur」
(私は気付いた。多分、nonではなく、neと言うべきだったのだ。)
 
 それを伝えられるとマイヤースは、理解していることを示してうなずいた。 そして数語の返答をしたが、それはフェダを動揺させた。
 私が彼女の努力から書き取ったのは次のようなものだった。
Rebus in ora」(下記参照のこと)。
マイヤースは「完全に正しくはない」と言った。だが彼はそのままにしておいた。 時が来れば、私はそれを理解するはずだと考えたのだろう。

 1〜2週間後、タイプアウトされた記録を読んでいる時、マイヤースはヘブル書の1節を引証したのかもしれない、と思いついた。 前後の文脈を覚えていなかったので調べてみると、その言葉は、すぐ前の箇所にあり、こういう意味だった。
「神は我らのために何かよりよいものを用意された」
そしてこう続いている。
「我等なくして彼等が完璧に作られるはずはない」
 
 私は、チャーターハウス校の元校長である友人のレンダル博士に手紙を書いて、 マイヤースの言わんとすることについての、フェダの拙い努力を明瞭にする何かが、ヴルガタ聖書の中にないものかと尋ねた。 博士は、
「nobis meliora」
という言葉を提示した。 彼はそれを、文脈の中の重要な言葉、すなわち、「我等にとってよりよいもの」を、マイヤースが軽率に思い出したのではないかと考えた。 正しいヴァージョンでは単数だが、複数でも的を得なくはない。
 
 おおむね、レンダル博士の意見はあたっていると私は考えるようになった。
 私はそれを押しつけたりしないし、どうするわけでもない。 ただ、マイヤースが時折応答するやり方のひとつの説明として役立つだけだ。
 彼は恐らく、ラテン語の言い回しについて、こういうふうに自身の見解を示すのだろう。 それは非常に簡単な文だが、フェダにとってもレイモンドにとっても間違いなく難解だ。 そしてもちろんトランス状態のレナード夫人にとっても、同じく理解できないものだ。

 以上のあまり重要でないエピソードに続いて、それに関わる会話の一部を引用しよう。 これは、あちら側と我々の談話が、身内のできごとや瑣末なことに限定されているわけではなく、 しばしば、より高度で一般的な話題にも触れているという事実を示すよい機会であろう。
 私はところどころ、カッコの中にコメントを加えておいた。 しかしそれ以外は、時に少々の難点はあるが、私が書きとめた記録のままにしてある。
 
 フェダはレナード夫人の支配下にあり、通常よりは子供っぽくないとはいえ、やはり楽しく陽気で、時折当てにならない。 彼女を通じて真面目な情報を伝えるのが容易なわけがない。
 マイヤースがたいがい、時間がかかっても、より明確なテーブル・ターニングを好む理由はそれである。 レナード夫人の所でもこの方法は時たま用いられていた。
 
 フェダの、マイヤースの呼び方は「Mr. Fred フレッドさん」である。
 レイモンドは時々彼を「Uncle Fred フレッドおじさん」と愛情を込めて呼ぶが、(特に最初は)「マイヤースさん」と呼ぶほうが多い。


【1927年9月16日のレナード夫人との交霊会の記録からの抜粋】

フェダは、霊界で彼女に向かって言われたことを伝えながら話していると思われている。 しばしば一人称で、或いは、文章によっては、時に別の支配霊に譲りながら。 プランについて少々話した後、彼女は言った。 マイヤース氏によれば、私の近刊著書は、幾らかのサイキックな経験を含むであろう、古いものだけではなく、新しい経験をも、と。

オリバー・ロッジ 「ところで、私はマイヤースやレイモンドとの会話の抜粋を出版したいと思っているんだが」
ああ、単に証拠としての方向でなく、一般的に興味深い方向に沿ってだね。
ロッジ 「それこそ私が望んでいたことだよ」
君はすでにたくさんの証拠を提出したし、多くの人々がそれに満足している。
今や彼らは、我々が何を考えているか、何をしているか、どのように日々を過ごしているか、 君が興味を持っている事柄についてどう思っているか、などなどについて知りたがっている。 少なくとも我々はその本についてそう考えている。
 
…レイモンドが言ってます。
みんながよく尋ねるって。私たちが、興味深いことは何も言わないのかどうか。
 
彼らは尋ねる。僕たちがいつも、
「これまで全然見たことがない机の3番目の引き出しの中に、写真が見つかるだろう」
としか言わないのかと。

(ピーダがここに書き込んだ。それが彼のやり方だ、行儀の悪いやつ!)

大叔母の知られざるチェストについても、写真についても、皆はもう十分に知っている。 今や皆が知りたがっているのは、我々の考えや生活だ。 そして、我々が、どの程度まで現世の君たちを助けることができるのかについてだ。
ロッジ 「君たちはあまり話してくれないね」
時間がない。
ロッジ 「そうだね。もっと交霊会を開けたらいいんだが」(レナード夫人との交霊会は年に2回、せいぜい3回だ。)
あなたに覚えておいてほしいことがひとつあります。 ――私たちがどのくらい、どの程度まで、地上の人たちを助けることが許されているのかについてです。
私たちには、自由意思を妨げないなら、どんな方法ででも、あなたたちを助けることが許されています。
だから、あなたが何か悪いことをしようとしているとか、そうしたいと思っていることがわかったとしても、 あなたを階段から突き落として足を折って、悪いことができないようにするのは、私たちには許されていないんです。 それはあなたの自由意思を妨げるから。 あなたに催眠術をかけて、意思を変えさせることも許されてません。
 
でも、ある程度のことをほのめかしたり、あなたの目の前に、ある状況をもたらすことは許されています。 あなたの気が変わることを望みながらね。 でも無理強いはできません、人生全体の目的とするところは進化で、他のなにものでもないから。 とても単純なことです。
みんな、「なぜこうなのか? なぜああなのか?」と聞きますが、人生の目的は成長です。 そして自由意思は、すばらしい力です。 それは、人に悪から善を選びとらせる力を持っています。 私たちが代わりに選んであげることはできません。
それが、私たちがあなたに無理強いしたくない理由です。 そして、交霊会の参加者たちに、何をすべきで、何をすべきでないかを話したくない理由なんですよ。
ロッジ 「うむ、でも時には、君たちは我々よりたくさん情報を持っているし、先が見通せるじゃないか」
ええ、そう。でも私たちはいつも、無理強いせずに、みんなに正しい道を示してます。 そして現世の人たちが、直接それを選ぶんです。 それなら、私たちは、あらゆる可能な方法で、あなたたちを手伝うことができます。
 
彼らも、あんまり長たらしくなく、簡潔に、周囲の環境についての明瞭な概念を与えたがっています。 それにはそう長くはかからないでしょう。
 
レイモンドが言ってます。
一言か二言、何か流れみたいなことを言いたいそうです。
(明らかに前回の交霊会でかなり仮定的に私がほのめかしたことにさかのぼっている。 つまり、彼らの世界に存在していると言われる木々や他の物体についての、明白に非常に類似した彼らの認識を説明できるひとつのありうる方法について)
僕らの世界はそちらの世界と同じだ、と、お父さんは考えていたでしょう、ただ、別の側から見ているだけ、別の見方なのだと。
ロッジ「ああ。そうなのかい?」
僕らの世界はいくつかの点で、お父さんのいる世界と大きく異なっている。 そういう見方で見るのは、僕らにとっては結構難しい。
でも、ある点では、僕はお父さんと完全に見解が一致している。 それはお父さんの理論に関係があると思う。 つまり、人間に必要なあらゆるもの、人間がある意味で自分のものにするすべてのものには、エーテルの複製がある。 僕らはエーテルのコピーを見ているんだ。
説明のために椅子を例にとろう。
(テート・ギャラリーには、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホによる一種の理想的な椅子の絵があって、私の注意を惹きつけた。 一見とるにたりない物体の彼の選択を、それが説明するのかどうか私にはわからない。 あるいは彼の目的にとってそれが重要なのかどうかも。)
お父さんが家で見ている椅子、お父さんの物質的な椅子、 そして僕らの世界にあって僕らが見ているお父さんの椅子、エーテルの椅子、それらはひとつであり、本当は同じものだ。
それでもエーテルの椅子は、僕らと共にあるように見える。 通信者たちが、こちらにテーブル、或いは椅子、或いは彼らが好きだった絵画を見つけて驚くのを聞いたでしょう。
お父さんはそれを別の側から見た同じものだと見なすよね。
ロッジ 「お前も同意見かね?」
お父さん、僕にとって、お父さんが正しいのか間違っているのかを言うのが、とても難しいのがそこなんだ。 だって、時間も空間も、お父さん達にとっての意味と比べると、僕らにはほとんど意味がないんだから。
でも、多くの事柄がお父さんの正しさを証明しつつあるよ。 フレッドおじさんはこう示唆している。 精神状態・霊的な成長の相違・異なる視点、そういうものが距離や空間の幻想を生み出すのだろう、と。
その通り、彼が言うように、あらゆる意味で、それらが距離を作リ出す。 最初は移動したように僕にはいつも思えていた。 最初にやってきた時、お父さんに会うためには長い距離を行かねばならないように、僕には思えた。 僕達の場所からお父さんがいた場所へと移動した、と僕は感じたんだ。
 
ここでフレッドさんが(レイモンドに)話してます、彼が言ってます。
 
うむ、お若いの、全くその通りだ。
しかしわからないかい、距離をこしらえたのはお前さんの観点だったのだ。 今では、距離はそんなに大きいものとはお前さんには思えないし、気に留めてもいない。
お前さんが最初にやって来た時、新しい状態に生まれて、再び生きているという事実に衝撃を受けた。 そしてお前さんの心にはそれ自体が、それまでいた場所とは別の場所として、新しい状態として刻み込まれた。 だから、お前さんが父親の家を想った時、それを本質的に異なる場所として思い浮かべた。 お前さんには克服すべき距離感があったのだ。 もうお前さんが距離を感じないのは、何度も何度も、架空の障壁をくぐりぬけたからなんだよ。
 
レイモンドが言ってます。
 
ええ。えーと、お父さん、そうなんだと思うよ、 でも僕はフレッドおじさんが見ているようには物事を見られないし、 そちらの世界と僕らの世界との間に距離がないとは言えない。
 
でもフレッドさんは距離がないと考えています。 レイモンドが言ってます。
 
多分、僕もいずれは、フレッドおじさんがしているように感じたり見たりするようになるんだろうな。 そうじゃないと言うほど僕は生意気じゃない。でもそのようには見えないんだ。
ロッジ 「ところでレイモンド、ひとつ質問があるんだが。お前が、何かの物体のエーテル面を見ていると思ってくれ。 そして私が手斧でそれをばらばらに叩き割ったとする。お前が見ている側では何が起きる?」
お父さん、それは、それを壊した時のお父さんの心境に大きく左右されるんだ。とても重要なところだよ。
 
レイモンドは話し続けます。
 
それが好きだったものなら、エーテルの形状は存在し続ける。 でも、嫌悪や癇癪によって叩き壊されたなら、それは『一般的なエーテル、形をもたないエーテル』に沈みこみ、吸いこまれてしまう。 つまり、形作られていないエーテル、生命が与えられていないエーテルに。
誰でも、ピアノや時計や机のような物を愛したり、身近に置きたいと思うことによって、エーテルのボディを形作ることができるんだ。 つまり、それに一種のエーテル状の生命を吹き込める。
鋳型、つまり精神の型を用意してやると、それにエーテルの形が与えられる。 人が物について考えることで一種の鋳型が用意され、その中でエーテルが形作られるんだ。
ロッジ 「物質化の正反対のようなものかね?」
それに近いよ。
ロッジ 「我々がそれについて考えなければ、お前たちには物質的なものが見えないという意味かい?」
お父さん、僕らには物質的なものは見えない。
お父さんがしかじかのことをしていたって僕らが言う時は、お父さんの思念が僕らを助けてくれているんだ。 僕らはお父さんと一緒に劇場に行くこともできるし、楽しむこともできる。
でも、お父さんがひどく退屈していたり、舞台を見ていなかったりしたら、その劇についてろくなことはわからない。 さもなければ、実際、お父さんの近くにいる誰かの力と思念を利用するしかない。
ロッジ 「そういう時は、我々の目を通してこちらの世界のものを見ているのかね?」
そうだよ、それができるんだ。でも、ちょっと説明しないと。
お父さんを通して見るだけじゃなくて、お父さんがいるからこそ見えるんだ。(一見、霊媒みたいである――著者)
フェダを通じて説明するのは難しいな。 目を使わずに見える部分ってわかるでしょう。見えるものを記録している部分のことだけれど。 見ないで見る。お父さんのある部分は記録しなければならないけど、別の部分は記録しない。
いくつかは意識を越えて潜在意識に入る。 そこにはなんの印象も残されない。でもお父さんの潜在意識に記録されたものごとを僕らは利用するんだ。
ロッジ 「我々が霊的なものごとを、お前たちを通して、お前たちによって理解するのと似たようなものかな」
まさにその通り、お父さん、まさに同じ働きだよ。 お父さんが僕らに触れて僕らの生活と共にいることを意識している時、 僕たちのレベルに属する叡智の確かな源泉をお父さんは利用できる。 お父さんはそうするように定められているんだよ。 努めて目と耳を僕らの世界で使うべく定められているんだ。 僕らが地上の世界でそうするように。 それができればできるほど、お父さんは高いところへ行ける。
 
フレッドさんが言ってます。 私たちを通して神を見いだすというのは本当だって。
 
君が神を直接見いだせないと言うのではないが、多分、神への最短の道は、我々を通すことだろう。
 
お父さんは直接どこにでも行ける? お父さんと目的地の間には、いつもそれをつなぐ道があるよね。
そして、神がお父さんの目的地ならば、僕たちを通して到達できる。神にたどりつく最良の方法のひとつだと思う。
 
レイモンドが続けます。
 
地上のお父さんたちが目と耳の機能を使えば使うほど、僕らは地上のレベルでも見ることができるようになるだろうと感じるよ。 お父さんが知覚できる領域を広げれば広げるほど、僕らの知覚範囲を広げさせてくれることになるんだ。
ロッジ 「ふむ、じゃあレイモンド、実録用に言いたいことがあるんだ。 フェダにはこれは理解できないし、お前にもわからないだろう。 だがフレッド氏が聴いていればわかる。彼は聴いているだろうか?」
うん。聴いているよ。
ロッジ 「結構、では、Ut non sine nobis consummarentur 」
彼も同意見だって。そして、おかしな言葉を口にしている。
Rebus in rebus in tore tory in ora hora inora rebus in something ora
彼は頭を横に振って、完全に正しくはない、と言っている。
彼は、2つの生活が、物質的な生活とサイキックな生活がもっと意識的に、もっと交じり合うべきだと考えているんだ。 それはある意味で、物理レベルでのエーテル生命を増やすだろうと。
 
つまり、ロッジ君、エーテル生命と呼ばれているものを、地上に増やすことが真に望ましいのだ。 我々が地上のエーテル生命――我々のエーテルの身体と同様、椅子やテーブルのエーテルの生命でもいい――を増やせば増やすほど、 深めれば深めるほど、明らかにすればするほど、尊重すればするほど、我々は動物的物質的な泥沼に沈み込むことがなくなる。
我々は人生の単なる動物的、物質的側面に浸って、エーテルを否定してきた。
ものごとのエーテルの価値を理解すれば、金銭のような物質的側面に支配されたり悩まされたりすることは、もはやなくなるだろう。 エーテルを理解するにつれ、我々はよりよい健全な遺産を次世代に渡すことができるようになるだろう。
ロッジ 「マイヤース君、物質的な美は泥沼ではないよ」
そうとも。 君たちがエーテルをよく理解するようになれば、君たちの身体、美、あらゆる有形のもの、物質的なものに、さらに感謝するようになろう。 しかしそれに溺れることも、支配されることもないだろう。その真の価値がわかるようになる。
 
生命のはかない側面は非常に美しいものになりうるのだ、エーテルをどう理解しているかに関わりなく。
君は物質的な感覚において自分の子供のひとりを失いたくない、もちろんそうだろう。 しかし君の子や、他の誰かのエーテルの側面を知るとき、君は地上の生活の基準を向上させているのだ。
我々はけっして物質を軽蔑すべきではない。それをできる限り美しいものにし、できる限りそれに感謝すべきなのだ。

そこで会話は別の話題にそれていき、間もなく終わった。


 言うまでもないが、これらの会話は、友人同士の議論に近いと思う。 どれも絶対確実なものではないが、他に比べればよい情報だ。 神託めいたものとして扱うべきではないが、しばしば、示唆に富んではいる。
 
 しかし自身の努力によるのではなく、他者から分け与えられた情報をあまりに信用する風潮は、斥けられるべきだ。 この手の愚かさは、古代の事例で証明できる。

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