第5章 通信の方法あるいは霊媒の能力に関する考察

 「常識」という結論との一致、あるいは、学術的哲学という結論との一致でさえ、 ひとつの仮説を、ばかげた、支持しがたいものにするには、本質的に十分ではないということを強調する必要がありそうだ。
――マクダガル『肉体と精神』、P363
 人間の生命の主要な神秘を、我々は実際に目撃している。 それは、珍奇な状況のもとに展開し、より至近からの観察にたいして、かつてないほどに開かれている。
 
 我々は心が脳を使うのを見ている。 人間の脳は、その最近の分析においては、精神(spirit)によって働くように特別に適合した物体の配列である。 しかしいつもの精神が働きかける限りは、その作用は概してなめらか過ぎ、我々にその仕組みを垣間見せてくれない。
 
 だが今や我々は、不慣れな精神を注視することが可能である。 その精神はその道具に慣れておらず、自らが席について、そのやり方を感じている。
――F.W.H.マイヤース「Human Personality」II, P254

 人が霊媒に関する報告を受け入れたり、 あるいは、霊媒という手段を通じて死者からもたらされたとされる交信の記録を信じたりすることが 困難な理由のひとつは、その過程についての精神的な概念を形成できないからである。 それゆえ、奇妙で不可能なことに思えるのだ。
 けれども出来事の真実味に関する証拠は十分にあり、さらに膨れ上がっていく。 また、その経験を甘受した人々は、十分に単純で自然なことと感じつつ、それについて語る。

 死者との交信に徐々に慣れていくためには、ただ習慣のみが必要である。 すでに、生きている友人達との日常会話に慣れているように。 我々が通常の会話の過程を分析するならば、その中に特色を見出すだろう。 それらは、いわゆる心霊主義的な文献の中で直面せねばならないものと同様、ほとんどわけがわからないものだ。

 これを明白にするために、読者、あるいは読者の中でこの点に困難を感じている人たちに、私は提案しよう。 地上での生活における通常の活動の性質に、少しばかり注意を払うことを。 とりわけ、情報と感情のやり取りを統御している、我々の活動のありふれた部分に。
 熟考するのだ。我々すべてがよく知っているが、多分めったに意識しない、通常のコミュニケーション方法について。


一般的なコミュニケーション方法について

 人類に共通する経験的認識は、個人ひとりひとりが心と身体から成り立っているということだ。 理解し計画するための心、刺激を受け取り、意思を実行するための身体。
 我々はまた、 周囲の物質的な森羅万象に対して、我々の身体を通して働きかけるということ、そして、 わずかでも身体が動かない限りは、我々の思考や意思はうまく実を結ばず、効力がないということを知っている。

 我々の意識的な肉体の活動は筋肉の収縮にあると約言できる。
 その収縮の結果は、第一に我々自身の手足を動かすこと、 第二に、手足と直接的、又は間接的に接触する、他の地上の物体を動かすことである。 大きく重過ぎない物体、あまりしっかりと固定されていない物体を。
 
 物体の動き、――対象となる物体の全体であれ、一部であれ――それこそが、我々が成し遂げられることである。 そして物質的領域では、我々は他のなにごとも果たせない。
 もしも固い本体の一部だけを動かせば、我々はそれを歪ませねばならない。 それは弾力のあるひずみであり、その保持には力の継続を要する。 あるいは、永久ひずみに終わる可塑的な屈曲であるかもしれない。
 独立したひとつの物体を動かせば、その動きは、抵抗がそれを止めるまで、自身の特性を通じて続くだろう。 物理的段階で我々が行なうすべてのことは、物体の動きと、それによる再整列であると約言できる。

 動きに続いて起きる他のあらゆる結果は――バネの張力であれ、建物が燃え上がることであれ、 音の製作、電流の発生、種子の発芽であれ――物体の固有の特性から派生する。 我々はそれを制御することはできない。
 我々によって、ひとつの出来事が計画され、手配されるかもしれない。 しかし、我々に可能なのははただ、物体の適切な断片をつなぎ合わせ、 それらの特性が、望ましいやりかたで効力を発するようにして、目的を遂行することだけだ。 実際の結果の成就は、我々の直接的な力の業績のなかには決して含まれない。

 物理的世界に及ぼす我々の力は、動きを起こして調節することに限定されている。 そうしなければ無駄になってしまうエネルギーを利用して、予定された方向へと導くことができる。 そしてこの物理的な手引きの力によって、我々は驚くほど多様な結果を達成できる。 しかし、第一にそして直接的に、我々は筋肉の動きに制限されているのだ。

 感受性の側では、我々はそれほど制限されていない。 我々には一定の感覚器官が賦与されているからである。 我々はそれによって、動きや力の単純な刺激を感知するのと同様に、 「音」「光」「熱」という名前で知っている物理的作用を識別できる。 我々は筋肉や、皮膚全体の表面を通じて、 また、特別な感覚器官を通じて、印象を受け取ることができる。
 
 上記の物理的作用のどれでも、基本的交信という目的のために利用することができる。 我々がしなければならないのは、それらの作用の強度に変化、あるいは変動を引き起こすようなやり方で、 物体に働きかけることだけだ。 よく知られているように、我々の感覚は、完全に均一な継続をしているものには反応せず、 変化だけを認識するのだから。
 我々は、動きや圧力の変化によるのと同様に、音や光や温度の変化で合図を送ることができる。 しかし私が知る限りでは、温度を使って合図を送る方法は実際には使われてはいない。 恐らく、時に奇術師によって行なわれる以外は。

 我々の中のある者が、単なる思考に反応しやすいということはありうる。 しかし、それは未だ、認知された通信方法ではない。 現実的な目的のために、我々がはっきり言えることは、 明確かつわかりやすい方法で仲間と連絡をとりたいなら、 何らかの物理的過程の介在を通じて行なわねばならない、ということだ。
 
 我々は、伝えたい思考について、考える以上のことを行なわねばならない。 喋ったり書いたりせねばならないのだ。 そのためには、我々は脳と神経機構を使う必要がある。 一定の筋肉を、指示され制御された様式に沿って働かせるために。 言い換えれば、肉体の仕掛けをコントロールして、型にはまった記号を、紙の上に残すようにしなければならないのだ。 さもなければ、「言語」という予め調えられた様式で、 空気を振動させねばならない。――聴取者が話し手の知り合いであれば、 その精神的な内容に適応するよう言葉が選択される。 非常に膨大な数の決められた暗号を使って。

 口頭で、あるいは書かれたもので表すこの伝達方法に我々はあまりに慣れてしまったので、 当たり前であるばかりでなく、避け難いものだと感じる。 しかしながら、それは実は単純なプロセスではない。 そして分析すればするほど、驚くべきことなのである。
 
 考え、あるいは感情は、伝達されている時、大気またはエーテルの振動という形をとらねばならない。 談話や音楽のように聴覚という手段がとられるなら大気の振動、そして文字や絵のように視覚的方法ならエーテルの振動だ。
 そこには、伝達機構の一部として電線が介在する際の電気の脈動のように、別の媒介者が必要だろう。 操作方法は全体として、非常に機械的である。
 しかしながら、いずれの場合にも、物理的過程はそれが終了する前に精神的に説明されねばならないことに注目して欲しい。 さもなければ、演説あるいは他の奮闘は、単にわずかな余分の熱を作り出すことのみに終わってしまうだろう。

 潜在的な聴き手、あるいは読み手の知覚力は、まずは、物理的刺激が自身の感覚器官に働きかけることを、 彼らが喜んで受け入れる気持次第である。 2番目には、暗号についての彼らの知識次第である。 3番目には、彼らの共鳴する解釈の能力の程度による。
 これら3つの条件はどれも、物理的刺激がひとつの考えとして現れるためには非常に重要なものである。
 
 一方、伝達者の視点からすれば、通信の過程は、身体の仕組みをよく働かせて制御するところにある。 そのメカニズムは伝達者に、自身の精神的な過程を、要求された物理的形式で表現するために与えられている。 その働きに我々は慣れ過ぎているが、その驚くべき、素晴らしい特徴に目を曇らせてしまってはならない。 談話や記述や芸術的な創作とは実際には何であるかを考慮するとき、 ――その物理的性質からのみ考慮すると――考えや感情がそのいずれの方法によっても伝達されるということは、全く驚嘆すべきことだ。

 疑いなく、その過程は、主に、精神的な過程としてみなされるべきである。 認知された暗号と必要な情報がひとたび伝えられれば、ほとんどすべての道具が通信手段として役に立つであろう。
 例えば電話の振動板は、――薄い鉄板の円形ディスクであるが――(驚くべきことに)明晰に語られるスピーチや、 オーケストラの演奏に必要な、すべての振動を拾い上げて再生することができる。 あらゆる楽器の音色が再生されるのだ。
 
 カチッと音のするレバーですら、単に上がったり下がったりのうんざりする繰り返しと共に、明瞭な声で電報のオペレーターに語りかける。 手に持った旗、あるいは大空の光線の振動は、重要な瞬間の命令や情報を伝えるために作られる。 ガラスのサイフォンによって、波打つ線の跡が紙の上につけられる。紙がその下を動くにつれ、インクの筋が残っていく。 それは、地の果てからの情報をケーブルで受信する際の通常の方法である。
 けれども、何も教えられていない見物人には、サイフォン記録機の跡は不可解に見えるに違いない。 未開の人にとってそうであるように。
 
 無線電信が登場した際、一般的にそれに付与された神秘は、ひとつの実例であった。 コミュニケーションの物理的方法について、たいていの人々は、それが彼らにとって未知の方法で行なわれていれば、 奇妙で神秘的だと認識しがちである、という事実を示すものだった。
 
 実際には、大声を出したり旗を振ったりする方法も、同様に神秘的なのだ。 ただ、その場合には受け取る道具(目)に、我々がすっかり慣れているだけである。
 しかしその働き方について、我々は多くのことを理解していない。 エーテルの振動に対する網膜の感受性の理由は、誰にも完全にはわかっていない。

 一定のふたつの精神が、共通の知識に調子を合わせ、伝達したり受け取ったりする能力を教えたのだ。 ――それは生まれつき持っている能力ではないのだから。
 聾唖者の保護収容所の経験が示している。 ――ほとんどすべての道具が、彼らの間で情報を伝えることに役立つことを、我々は見出す。
その欠くことのできないものすべては、何らかの物理的過程が働くということであり、 何らかの動きが物体の世界で引き起こされる、ということである。
 
 物質的世界を通じて精神が働くことは、非常に重要なものだと思われる。 少なくとも我々が脳を持っている限りは。 精神が物質に作用することができるという事実は、非常に不可解なものではあるが。
 どのように精神と物質の間の深い溝が埋められるのか、 どのような手段で、心の中のひとつの思考が、物質的生命体をうまくコントロールできるのか、 どのようにして、我々の意思や考えが、物質の非常に小さい断片の動きをゆがめたり変えたりするのか、たとえ小指一本でも、あるいは脳細胞ひとつでも。 そのすべては、今のところ全くわかっていないのだ。
 したがって我々も、物理的刺激の解釈を、精神的な印象の分類へと逆行させることを説明する理論を持っていない。

 哲学者達の中にはこう指摘する者もいる。 精神と物質の間の相互作用の場合であっても、 原因と結果の間、その関係についての我々の理解の不足は、何ら例外ではないと。 我々はその困難を、通常の場合よりは容易に悟る。が、それはすべてに存在するのだ。 そして我々の誤りは、その困難をいたるところで認識しないことにある。

 従って少なくとも、ロッツェは言う。私は全面的に同意するとはまったく言わないけれども。 (※訳注 ルドルフ・ヘルマン・ロッツェ Rudolf Hermann Lotze, 1817-81 /ドイツの哲学者。自然科学の立場と観念論的世界観との調和を試み、汎神論的立場に至った)
 彼が言うには、

 この間違いの核心は常に、ひとつの物事が別の物事に作用する性質についての知識を、自らが持っていると我々が信じていることにある。
我々はそれを所有していないばかりか、それ自体が不可能なのだが。 そしてまた、我々が、物体と魂との間の関係を例外的なケースだとみなすことにも間違いがある。 そして、それらの相互作用の性質に関する全知識が自分たちに欠如していることを知って驚くのだ。
   身体と魂との間の相互作用において、他の因果関係よりも大きな謎などはないことを示すのは簡単だ。 また、そのひとつの場合について何か理解しているという、我々の間違った自負だけが、 他のことについて何も理解していないことへの我々の驚きを誘発する。
――マクダガル『肉体と精神』P207

 我々が電気を、あるいは磁場――もしエーテルを除外すれば――を考慮に入れない限り、 ひとつの物体から他の物体への相互作用をすべて理解することはできない、ということに私は同意する。 いわゆる力も、ひとつの原子が別の原子に作用しているのだ。
 そして私は主張する。 もしも精神と物質の間の相互作用について合理的理解がされねばならないなら、 同じく偉大であり現存する物質的実在は、 目下のところは知られていない、なんらかの方法の媒介物として、注意を喚起されねばならない。

 しかし、精神的及び物質的な相互作用の方法は、知られていないにしても、 その事実自体は確実でありふれたものだ――あまりにありふれているために、なんの注意も惹かないし、 まったく平凡なものとして扱われる。
 我々自身、それは我々の精神的かつ霊的な一面なのだが、 実際に、地上のエネルギーを誘導して、物体を動かし、その形状を変え、 さもなければ生じなかったであろう結果を生み出す。 我々はこの力を、 同様に特殊な建造物を作るすべての動物たち――鳥の巣や蜘蛛の巣や貝殻のような――と、 ある程度まで共有している。
 しかしこれらの動物的な行為の中で、明確に人間的なのは、とりわけ物理的な合図である。 それは我々が属する人類が同意したもので、我々の同民族にとっては理解可能なものである。
 
 物理的レベルにおいて、これらを含む他のすべての結果を成し遂げるために使う道具は、 まず第一に、脳-神経-筋肉のシステムである。
 それは、我々の身体の大きい部分に含まれ、構成する。 何かのはずみに我々は、脳の中枢を使う、または刺激する。 そして刺激がその線維を伝って、測定可能な速度で送られる。 それが到着すると、一定の筋肉に所定の方法で収縮が起きる。
 当然、そのプロセスは、他の物事と同様、不思議なことにほかならないとみなされるかもしれない。 しかし、――その特質がどうであれ――それは起きるのだ。それを完全には分析できなくとも。
 
 しかし我々はこう言うことはできる。 何らかの物理的な動き、例えばまぶたを上げるとか、鼻をひくつかせるとかが起きなくては、何も伝えられないということを。 (少なくともテレパシーの可能性を認めない限りは。テレパシーは通常の方法には含まれていない。)
 一方、もしも制御がなされれば、外界の物体、電鍵や信号機やポインター、ペンや鉛筆ならなおよいが、それらを意のままに動かすことができる。
 このようにして間接的に伝達することが可能な情報と感情には、制限がない。

 しかしながら、使用されるすべての伝達手段は、感受性の強い別の人間の存在を前提としている。 物理的印象を受け取るために適した道具を付与され、それを精神的に理解するに十分なほど、注意深い人物だ。 送信器を使いこなしさえすれば、十分にたやすく、こうして他者のメカニズムと精神とを刺激することができる。

 いくつかの道具は他のものより優れている。しかしたいがい、どの道具でも役に立つだろう。 また、メッセージを伝達するという目的のために、 喉頭とその付属器官が、他のどの物体よりも高度に特殊化されていることは明らかだ。 我々がとりわけ慣れ親しみ、熟達している道具であるのだから。


代わりに道具を使用することの可能性

 我々はさらに続けて、次のように認めることができる。
 すべての人は、我々のものに類似した喉頭と、脳-神経-筋肉のシステムと結びついた機能を持っている。 そしてまたある人々は、これらの器官の使用を、我々がやったのと同様の方法で、訓練によって発達させた。
 ではいったい、我々が、別の人の伝達機構を、自分自身のものの代わりに用いることは、可能であろうか?

 さて、もしも自然科学者や化学者が、他人の研究室に入っていって、そこで何かの実験をしたり調査を行なおうとしたら、 かなりの困難を見出すであろう。 なぜなら、どこに何があるかを彼はほとんど知らないのだから。
 しかし、まがりなりにもそれをすることは可能だろう。もちろん大いに勝手なことをしながらだが。 秤やビーカーやボトルのような見慣れた物を彼は見つけるだろう。 そして殆どの物について、それが何のためのものか、わかるだろう。 彼が必要としていない物も色々見つけるだろう。 そして必要としていた幾つかの物がないことにも気付くだろう。 しかし彼は、多かれ少なかれ、自分の目的に合わせ、それらの選択や適応をやりくりして、それらを彼なりのやり方で使うだろう。
 従って、こういう問題になってくる。 この冷静沈着で有形の、その使用にそれぞれが慣れ親しんでいる研究室が、 万が一にも、異質の知能、あるいは所有者ではない別の誰かによって作動させられたり使用されたりすることは可能だろうか?  言い換えれば、ひとりの人間の心の中の、ひとつの思索または考えが、 別の人間のメカニズムの中に何らかの動きを喚起したり、あるいは何らかの反応をもたらすかどうかを、我々は問わねばならない。

 テレパシーの経験的事実は、その手のことが何かしら可能であると暗示しているようである。 通常、テレパシー的動作は精神と精神の間で起こるように思われる。 そして、精神から物質的過程への置き換えは、普通の方法でなされるだろう。
 
 しかしテレルジー(遠隔精神作用)のより曖昧な力、その出現で我々が時折、 観察した事実の説明に追われるような場合はどうだろうか。
 これは、例外的に感受性が強いか、またはとりわけ天分に恵まれた人間の伝達器官が、 時として別の精神によって動かされることを示している。 その伝達器官の持ち主が、自身の生命体の一部を明け渡すほどに満ち足りていて、 他人がそれを使うのを許すほど寛容である場合だ。

 与えられたどのケースにおいても、 その作用がテレパシーによるものなのか、あるいは遠隔精神作用でなされるのかどうかは些細なことである。 また、その作用が稀なのかあるいは頻繁なのかも、同様に些細なことだ。
 重要なのは、ある人々の身体のメカニズムが、 通常は彼ら自身の制御下にあるにもかかわらず、常にそうとは限らないということである。
 
 多重人格の事実は、別のかけ離れた知性による制御を、ずっと前にほのめかしていた。 ――それは実際、常に友好的だとは限らない。 そして、手に負えず、御し難いとして、病理学的に示され認識されたその力は、 幸せな環境と、もっとましでより健康的な条件下では、親切な用向きのために利用することも可能なのだ。

 霊媒は、彼らの装置が彼ら以外の精神によって作動されるにまかせる能力をもった人々だ。 別の精神からくる刺激に対して生理学的に反応する。それが霊媒というものだ。 それが本当の能力か、そうでないかは証拠の問題だ。
 私は明言しよう。――私が現在見る限りでは――その真実性は、 今や多くの人々が経験によって知っている確かな現象を説明するために、適応されうる最も単純な仮説である。
 
 それは、程度は色々あるにしても、珍しい能力でさえないようだ。 そして恐らく、修練と進歩が可能である。 便利な霊媒能力の最も単純な形のひとつである、いわゆる自動書記を行なうことが、 多くの人にとって可能である。――それは、例え友好的な知性であっても明らかな他人に、 自分の手と腕を支配されることを許容することだが――彼ら自身の知性は絶えず目覚めているが、 ほんの一部分が干渉から引っ込んでいる。

 トランスは、意識的な注意の更なる撤退であり、 ある人々は、トランスの最中に、自身の発声器官を談話の伝達のため、 また時には通常の知力範囲からはみ出した考えの表現のために使うことを許容する。 トランスから覚めた時、彼らはこれらの発言についての記憶をもたない。 恐らくいつも、彼らの脳の一部分には、何らかの証拠や記憶があるにもかかわらず。 それらは適切な手段を用いれば、呼び起こされるだろう。
 
 トランス状態は、類似した特徴は多くあるが、催眠や睡眠とは異なる。 しかるに、催眠状態では、患者は示唆に従う。 あるいは、多かれ少なかれ、生きている人間にコントロールされる。 トランス状態についての印象的な事実、あるいは、トランス状態のひとつの特別な例は、 その有機体が時折、肉体を持たない知性に操られるということだ。 つまり、自身の肉体のメカニズムが完全に破壊されている人物によって。

 コントロールのあらゆる段階、物理的反応のあらゆる種類があるように思える。 最も基本的なテーブルの傾きや、信号機の腕木から、知的な文章を書いたり話したりすることまで。 そして時々、滅多にないことであるが、霊媒にとって未知の言語で考えが表現されることもある。
 通信がなされる能力の多くは、伝達者の力と技術と、受信者の理解次第である。 しかしまた、使用される生理学的道具の習性と素質にもよる。 習慣的な言い回しや決まり文句は、非常に容易に口にされて使われる。 しかし、深遠な考えを伝えようとしたり、あるいは慣れない言語を用いようとするのは、はるかに困難である。 教養のない道具を通じてでは、不可能に近いであろう。

 さらに、独特な名称のような、無意味な記号による単語の伝達はたいてい難しく、特別な努力を要する。 実際、その経験は、電話を通じての電報の書き取りによく似ていると思われる。 なじみ深い文句は容易にとらえることができる。 一方、奇異な単語や固有の名前は何度か繰り返される必要がある。 そして時として、苦心して綴られる。
 したがって、メッセージの最中に不意にさしはさまれる唐突な質問は、伝達者を混乱させる結果になる。 そして、別の主題への転換などは、メッセージの明解さをすぐにそこなう。 それが、以前に書き留められたものであったり、機械的に伝達されているものでない限りは。

 最も平凡な場合でも、最も並外れた場合でも、いずれの場合にも、――これを繰り返さねばならないが――重要なのは悟ることだ。 通信過程の本質的部分が、いつもどれほど顕著に精神的であるのかを。 それが、発音の明瞭な談話によるにせよ、あるいは筆記、または絵で描かれた表現によるにせよ。
 
 たとえば、趣意を伝えるために画家が用いる手段は、あるやり方で絵の具を準備することだ。 作曲家が未来の音を生み出すのと同じように。 作曲家が行なうのは、実質的には、十分な指示を書き留めることだ。 今後、熟練した人間が、意図された方法でその音を再生できるように。 そしてその時でさえ、この再生が、適切な受け手――いわゆる洗練された目や耳を持つ人間――の面前でなされるのでなければ、 画家や偉大な音楽家たちが意図したメッセージは伝わらないだろう。
 その絵画の中のすべて、音楽だったらその音の調子は、未開の人や動物達にも見たり聴いたりできるだろう。 しかし、ペリシテ人のように、彼らにはどんな反応も呼び起こせない。
 きちんと絵画を見たり、音楽を楽しむためには、一定の能力、一種の精神的な注意深さと共感が必要だ。 そしてそのサイキックな反応なしには、大事なことは何も伝わらない。 芸術作品への我々の評価は、我々がそれに何をもたらすかによるのだ。

 それゆえ今後、サイキックな調音がなされた時、伝達の物理的部分が楽々と処理されることに、驚く必要はない。 ジェスチャーは言葉を使わずにかなりのことを伝えるだろう。
 読唇は、しばしば聾唖者によって用いられる。 5線紙上の黒い点を単に一見することが、ベテランの音楽家にはハーモニーやメロディとして訴える。 紙の上の黒い記号は、詩の物理的側面を構成する。 単なるテーブルの傾きが、情報と感情の両方を伝達できることは知られている――たとえその事実が奇妙に思われても。 テレパシーの非凡な能力は、極端な場合においては、ほんの僅かな物理的刺激さえなくても構わないことを示している。 当然、現状においては、通常その過程は緩慢で不確かであるけれども。
 
 したがって、実は真に驚くべきことではないのだ。 完全な生物的肉体が、別の人間に属しているとしても。練習と共に、肉体を離れた知性に用いられるということも。 そういうものが存在すると仮定し、そして、そうしたいと願うのなら、 未だ物質に結びついている人々に、なんらかの愛情のメッセージを伝えたり、 彼らの実存の継続と身元を巧みに証明したりすることが可能だということにも。

 もしも我々の身内や友人が、身体を離れた後も存在しているなら、 コミュニケーションに必要な、精神的、あるいはサイキックな中身をすべて彼らは持っている。 彼らに欠けているのは、物理的道具だけだ。
 仮定的に、霊媒の存在がそれを供給すると思われる。 かつて自身の身体に働きかけていたのと同じ方法にならって、――何をしているかは全然知らないけれども、 単純にそれをしながら――かけ離れた生理学的な有機体に作用できるなら、あとは簡単だ。 彼らは我々のコードと思考方法に精通している。
 そしてもしも彼らが昔ながらの馴染みの方法のように、物理的「戻り止め」を何かの中に引くことに成功するなら、 我々が理解できるだろうと期待するのは当然のことだ。

 我々は実際、自らの感受性を強く保って、彼らに必要な注意を払わねばならない。 さもなければ彼らは無力なのだ。
 時に彼らは、我々の注意を惹きつけるために特別な努力をする。――つまり、我々を電話で呼び出すために――しかし、 筋の通ったメッセージのような何かを得るためには、双方の協力がなければならない。

 得られるメッセージはしばしば単純で、時には愛情の言葉だけの場合もある。 次いで、息の長い伝統的な疑い深さに対抗して、些細な思い出や独特な言い回しの助けを借りながら身元を立証する試みがある。
 つかえながらのこれらの簡単な言葉は、明らかな苦労を伴いながら不慣れな経路を通じて伝達される。 そして計画的な沈黙や、しばしば、露骨な不信感と共に受信される。
 これらの言葉は教会組織にとっては障害物であり、科学にとっては愚かさだ。 しかし遺族にとっては、はかり知れない価値のある力と慰めである。

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