第7章 予想:簡単な概要

私の小さな存在の火花は完全に消え去るのだろうか、あなたの深淵と高みのうちに? …隔たりを取り除く門を通して、より高きものの煌きがやってくる。
――テニスンの最後の詩集からの詩句

 結びにあたって、我々が横切ってきた地平を急いで概説し、前途に横たわるものを思い描いてみよう。
 我々の視野は各方面に拡大され始めた。 地球のみに対する関心から出て、地球がその不可欠な一部である無限の宇宙で、なにが起きているのかを理解するために。 そして構成された原子の、まさにその隙間を突破するために。
 我々は終始、ひとつの法則の体系を見出す。 それは偉大なものも卑小なものも共に支配しており、地球だけが特別な例外ではない。 そして今我々は、それと同じ宇宙的拡大を生命と精神の領土へと広げるよう、促されるのを感じ始めている。 我々は不滅、完全、堅固を探し求め、宇宙それ自体にそういった属性を見出す。 物質ではなく、それが我々の永遠の住み処である。 そこで我々は現在使用している物質的な媒介物を見出し、いつまでも使い続けるであろう。

 我々の物質的な身体は脱ぎ捨てられ、後に残されねばならない。 どんな物質的なものも永遠ではなく、常に遅かれ早かれ崩壊する。 しかし、ものの魂は物質的な表象のうちにあるのではない。
 絵画の物質的側面はキャンバスと顔料であり、顕微鏡で他になにか見つけることはできないだろう。 だがそうした調査では、「絵画」や「魂」、あるいは意味――実在――は、消散してしまうのだ。 物質的なものが分析的な方法で熟慮されるときには。
 また我々の身体でもそうだ。解剖された身体は、筋肉と血管と神経――すばらしいメカニズムである。 だがそうした調査では、魂や精神を見つけることはできない。

 精神は物質を支配し、利用する。 実演し、達成すべき目的のために使い、顕現の手段として使役するのだ。 だが思考および個性を、原子の集まりと同一視するのは致命的な誤りである。

 脳は物質のやわらかい塊で、思考を再演し、印象を受け取って送るよう神秘的に設計されている。 しかし脳は考えず、計画せず、見ることも聞くこともしない。 精神だけがこういう精神的なことをなすのであって、脳はその道具なのである。 脳と、その神経と筋肉の協調がなければ物体を動かす力はない。 したがって、話したり、書いたり、我々の印象を運んだり、思考を表現する力もないのだ。

 我々の物質的身体全体は、驚くべき精巧さと適応の美しさを構成するよう、 巧みに組織された原子の集合である。 すべての部分に適当な機能が割り当てられている。 そして我々は、その協力と、全体の調和した働きによってこの世に生きている。
 それが我々がここ、地球上に生きるやりかたであり、 そして同様の立場にいる他の者に、自分を知らせるやりかたなのである。

 我々の身体を構成する粒子は、野菜や動物の実質から集められる。 そして配置されるのだ――内在する存在、あるいは精神的な存在、 生命または魂とも呼べるもの、 少なくとも、我々がわかったふりをしないものによって。
 その中に自己、性格、記憶が横たわっているのだ。メカニズムの中にではない。

 耳は聞かない、それはただの聞く道具である。 電話がメカニズムであるように、耳それ自体がメカニズムなのだ。 目は、カメラが「見る」以上に見るわけではない。 そういう受信する器官を使って、見たり聞いたりするのは我々である。 それらは振動によって刺激される。 そして実に奇妙なことではあるが、我々はその振動を解釈できるのだ。

 我々は景観や美術品、詩や絵画に触れ、感覚のしるしを解釈する。 我々が話を聞くとき、受け取るのは空気の振動がすべてである。 動物の感覚もまったく同じものを受け取るが、解釈すべき精神を持たない。

 解釈する能力は驚くべきものである。 我々はちょうど、ある独創的な装置によって、調和と感覚に触れたエーテル波を解釈する方法を学んだところだ。 我々の真の存在を道具と混同するのは、単なる愚行にすぎない。

 身体がまさにその形であるということは、物質的なものには依存しない。 水晶の形のように、供給された食物の性質には依存しないのである。 同じ食物が、同じようにうまく鶏や豚を作ったかもしれないのだ。
 個人的主体性は、粒子やその集合の中にはない。 粒子を寄せ集め、それぞれの粒子に役目を割り当て、 生命を与えて生き生きと動かす原理に、――魂に属しているのだ。

 消化の過程で血液に入る原形質のような細胞は、 組織のある部分に行き、その場所に従って配置される。 ある場所でそれは爪、別のところでは髪、また別のところでは筋肉や皮膚に寄与するだろう。 皮膚を傷つければ、すぐに修復される。神経を切ってもまた治る。 信じられないような過程だ――完全に我々の意識的な力を超える。 考えて足の爪や歯や髪を伸ばすことなど、誰ができるだろうか!  その過程の物理学と化学を学ぶことはできるが、誘導し、宿り、内在する力は我々の目をのがれるのだ。
 すべては法則と命令に従順である。法則は定式化されうる。 熟練した観察者によって観測され、説明されたプロセス――しかし、それはただのメカニズムだ。 我々は橋やエンジンやラジオ受信機の構造を研究するかもしれないが、 発案者や設計者は目に見えないのだ。

 生気を与える力を物質的媒介物と同一視することは、我々の恥をさらし、現実に目をつぶることだ。 ヴァイオリンやオルガンは道具である、だが音楽には音楽家を必要とする。
 我々は物質ではない。我々は物質を使い、それを捨てるのだ。 身体は我々の道具であり、しばらく持ちこたえ、それから埋葬されるか火葬されねばならない。 身体はその役目を果たした。そして粒子は、今はもう別の有機体の役に立つのかもしれない。

 我々自身は決して墓には入らない。中断されることのない存在を続けるのだ。 たぶん他の顕現方法をとるのかもしれない――その意味では別の体だが――その体が、もう物質でできていないとはいえ。
 古い物質の身体は死んで処理され、決して我々によって蘇生させられることはないであろう。 一度完全に死んだなら、その死体の蘇生はありえない。 それは賛美される復活ではなく、予想外の説明できない奇跡か、 あるいは単なる怪奇に過ぎないかのどちらかだろう。

 存在の物質的視野に自身を限定し、現実に目をつぶっている人々は、 必然的にひどく低く限定された人間の運命の見方をとる。 そして死後存続という観念を無意味だと考える。
 もし脳が精神そのものであり、すべての記憶がそこに蓄積されており、 思考と観念を再生し表明する道具であるだけでなく、 実際に人間存在そのものだとしたら――妙な概念だが――もちろん、 そのとき我々は弱くはかない被造物であり、千の月を生き、そして我々がやってきた塵に戻るのだ。 永続性もなく意味もない、むなしい戯れである。 我々の希望と信念と慈善のすべて、我々の喜びと悲しみと献身のすべてが無に帰し、抹消され、 喋っている物語のように中断される。

 そうした理論をとる者にとって、死後存続(survival)というものの唯一の概念は、身体的メカニズムの蘇生であろう。 正しくも妖術(訳注 necromancy=死体+占い)と呼ばれる試み、つまり、死体を扱うことである。
 かつて、墓が口を開けて死者を出し、すべてが蘇生すると本当に信じられていた時代があった。 我々の貧しい、破棄され脱ぎ捨てられた地上の粒子の塊がひとつに集められて、 いつまでも拷問されるか、または愛玩されるのだという。 そのようなひどい迷信から、自らを解放したまえ。

 それとは対照的に、真実はどうか? 真実は、我々自身は死すべき運命に服従するものではない、というものである。 我々は永続的な存在であり、腐敗も磨耗もしない。 それは物質的な肉の有機体――被造物たる動物の残りから我々が継承した形――を超えるものであり、 生気を与え、制御し、支配するもの、真に我々を構成するスピリットである。 しかも身体に起こりうる事故からは独立して持続する。魂を襲って傷つけうるのは悪だけだ。 我々は言語を絶する高みに登ることができ、それに応じた深淵にも降りることができる。

 永続的な人間の要素は性格――つまり意志である。 それは人の運命を決めるものだ。 我々はメカニズムを超えて上昇した。我々は強制されない。 トロッコのように溝を走るのではなく、自由にコースを指示できる。 座って舵をとり、進路を選ぶことができるのだ。
 我々の多くは、長いこと障害物を避けながらハイウェイを疾走してきて、満足している。 だが、ある者たちはそれ以上のことができる。まるで翼があるかのように。 彼らは少なくともわずかな間、卑小な人生の苦しみを超えて高く飛翔することができる。 自由と美へと上昇し、歌い、人を喜ばせ、こつこつと働く者を励ますことができる。 はかない一瞥以上のものをとらえはじめている宇宙の、法悦と美と荘厳を分け合うために。

 各個人の前に待ち受けている鮮やかな展望は、 彼がそれを知覚する準備ができたときに、各々特徴をもって広げられる。 この惑星の人類の、未来への希望と霊感として。
 この地球は、苦闘し、向上心に燃える魂の領域である。 訓練としての物質との結合によって妨害され、より強くされる。 人間は、我々が知っているように、進化の最近の産物である。 物質的環境を賢く統御する方法をまだ学んでおらず、 ものの相対的な重要性について、痛ましい思い違いをしている。
 だが、霊感を受けた作家たちは、彼自身の救済をうまくやり遂げられるという自信を与えた。 善意の種は蒔かれている。そして、それらが芽を出し始め、花を咲かせたとき、 未来の世代は地球の楽園を受け継ぐだろう――その初期段階、胎児の状態にあるもの、 準備の長い労働と、苦しみと、努力に値する楽園を。
 地球はいつか本当の天体(heavenly body)になるだろう。 そして天国は、我々の究極の把握の中にあるのだ。

 ほんのわずかな者だけが仲間をしのぐとき、人間はまだ、完全に発達してはいない。 そして、誰もが生得権を悟ることができる時代は、確実に訪れるだろう。
 現代の不安の多くは、より高いもの、 この世がすべてであるはずがないという感覚のあとを、 手探りで進むことにある。 いわく、教育とレジャーは苦心して得る価値がある。 いわく、普通の人間の現在の力が及ばないところに目的があると。
 恐ろしい誤りはそうした努力の一部にあり、利己主義がつきまとって理想を損なう。 しかし遅かれ早かれ、そのすべては正すことができる。

 人類はまだほとんど文明化されておらず、我々には埋め合わせるべき多くの遅れがある。 しかし、時間はたっぷりある。
 個人にも民族にも、行く手には壮大な見込みがある。 もし我々が、我々の顔をしっかりと正義に向け、間違いなく用意されている案内を探し求めるならば、 そしてもし存在の本当の意味はなんなのかを突き止めようと努め、 我々には神々しいとも思われるその努力によって、我々の意志を正しくするならば、――そのときこれらの声を超えて、 我々は平和と、完璧に自由な奉仕に達する。

 援助、あるいは指導について述べよう。 それもまた現実のものであり、我々に強いるものではない。 だが我々が自ら災いを招くなら、我々のものになるかもしれない。
 大量の人間が地球上で生き、努力してきた。そして滅んではいない。 この偉大な宇宙にはたくさんの余地があり、なにひとつ本当に存在しなくなることはない。 それは我々の知力の限界を超えているかも知れないが、存在を終えるものはなにもないのだ。 物質の原子でさえ永続するように見える。すべてのエネルギーの断片は保存される。 破壊は存在せず、変化があるだけなのだ。
 したがってすべての生ある者とともに、彼らはずっと存在する。 そして我々は、その何人かが、 まだこちら側にいる間にも人類を助けようとして、どのように苦しみ、また元気づけたかを知っている。

 あなたは、彼らがもう働いておらず、眠りについて、 我々を無視と孤独の中に置き去りにすると思っているのだろうか? そうではない! 我々は孤独ではない。 我々は、より良い状態を得ようと励んでいる代行者にすぎない。
 強力な軍隊が仕事をしているのだ。 破壊の仕事ではなく、再生、激励、援助、そして指導の仕事である。 彼らは闘争を捨ててはおらず、まだその渦中にいる。 今はもっと高い見地からそれをとらえ、我々の馬鹿な間違いを見て嘆きつつ、 援助の手を差し伸べる用意ができているのだ。
 
 すべては、疑いもなく、我々の概念を超えたより高い力に従う。 それは依然として法則、物質的な手段、代行者によって作用するのだ。 我々には測り知れない、しかし喜んで認めることができるやりかたで。
 個人の運命は主に自分自身による。民族の運命は、我々および以前他界した人々による。 我々は共同する仕事仲間なのである。
 より満足な状態、いわゆる天国は、いつか地球上で到達されるべき目標であり目的である。 その目的に向かって、不死の力が働いているのだ。 荒れ狂う意志がそれを妨げ、また欲と争いが対抗する。 しかし確かに善の力のほうが強く、最終的に打ち勝つだろう。

 これが、美しく、驚嘆すべき地球である。 この地球での生活のひとコマは、明らかに、計画の巨大な重要性に寄与している。 いつか我々の理想は実現されるだろう。 いつか人類は、この視野の中にいま見えはじめたばかりの可能性に、より近いところまで上るだろう。
 すでに人類は、プラトンやシェークスピアやニュートンを生み出した。 谷や平野よりも先に、昇る太陽をとらえる山頂のように。 そして普通の人間がその高さに達したとき、頂はどうなるだろうか?

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