第6章 死者との交信は可能か

科学がその徒を地上の問題に向かわせてきたのと同じほどに、 不撓不屈、かつ誠実に、不可視のものを研究するべく機が熟している。
 
我々も知っての通り、科学は、大変動をもたらす、 異常で超自然的な存在の前で、安んじてはいられないだろう。
彼女の至高の理想は宇宙の法則だ。――そして彼女は薄々感づいている。 真に宇宙的なあらゆる法則は、ある意味で進化的であるということに。
 
テレパシーの発見は我々の前に、あらゆる生き物同士の交信の可能性という道を開いた…。 そして、我々の持つ目下の証拠が示しているように、 肉体を持った魂と、肉体から離れた魂との間で、このテレパシーによる交流が存在することが可能ならば、 その法則は、宇宙の進化のまさに中心にあるに違いない。
 
いったい、威厳のあるものとそうでないものについての我々の概念は…真実の発見において我々を導いたであろうか?  アリストテレスは不動の星々を、非常に遠く離れているからという理由で神聖視し、 足元の石ころと同じ元素からそれらが出来ていると推測するのは、 威厳のないことだと考えなかっただろうか?  星々のように、肉体を離れた魂は、我々が想像しがちなものよりも、 むしろ我々自身に近い形ではないのだろうか?
――F・W・H・マイヤース 「Human Personality」II, 9章

 人は霊媒の交信過程についてしょっちゅう不思議に思い、 たとえ親しく語ることができたとしても、それが本物であるかどうかを疑うかもしれない。 それがいかなる経路を通して得られるものなのかと。 そして普通、霊媒は、「神聖」だとか「絶滅した」などと見なされているらしい。
 
 実を言えば、彼らは「神聖」でも「絶滅した」ものでもないのだ。 そして、世界が理にかなったやり方で、この真実を悟るのが早ければ早いほど、 世界と霊媒たち双方のためになる。 長い慣習と伝統からくる問題は、ある程度は直接的な経験によって、 しかしまず第一に学識と研究によって、必ずや徐々に乗り越えられるに違いない。
 私もまた、死後通信のありのままの考えについて、 なんらかの困難を――ひょっとすると宗教的な困難さえも――覚える者に対して、 また、まじめに「死者と会話すること、または死者が我々に連絡することは可能か?」 と問う者に対して、備えたいと思う。

 先験的な事柄についての答えは与えられないだろう。 人を馬鹿にしたようなもの以外、―― 研究における主要な単語の意味についての性急すぎる憶測に、消極的な基盤を持つもの以外には。
 「死者はなにも知らない」というのが本当なら、彼らは実際、もはや個人的存在ではない。 そして、存在しないものと交信することはできない。 だがそれは、順序が逆の推論である。
仕事に着手する正しい方法は、まず実験と観察によって、交信が可能かどうか突き止めることである。 次にもしそれが確定した事実になったならば、 結局のところ死者がなにかを知っており、しかも彼らが個人的存在である、と推論するものだ。

 しかしここで、明白な疑問が起こる。 いかに理性的であるとはいえ、 思考を動作に変換するための物質的な器官や組織を持たない者と、 どのようにして通信することができるのか?  どのようにして、少なくとも思考だと認められる場合がありうるのか?

 その部分的な答えは、テレパシー実験による発見から得られる。 テレパシーは、精神から精神への直接の伝達作用と思われる。 しかし、どんな種類の再現、活用、または他者への伝達にも、まだ物質的作用は必要である。 したがって我々が知る限り、生理学的機構は必要だ。

 ある種の器官は存在するに違いない。 だがそれは必ずしも、その使用された器官が、その伝達をおこなっている知性の所有物でなければならない、 ということではない。
 得意な楽器を取り上げられた音楽家は、他の演奏方法を学ぶだろう。 しかし、なんらかの道具――ペンすらも――なしでは、彼の魂が音楽で一杯であっても音もせず理解もされず、 再生されることも、書きとめられることさえもできない。
 そして、ペンより劣った奇妙な道具でも、ないよりはましであろう。 そしてなんらかの表現力を、もう一度彼に付与するかもしれないのだ。

 多重人格という現象では、特異な状況のもとで、 ひとつではなく複数の知性によって、単一の人体が操られるように見える。 まるで通常の占有者が時々追い出され、他のものが取って変わることができるかのように。 それは、外見上そう見えるにすぎない。 しかしその外見は、今まで考えられてきたより、ずっと現実に近いことが判明するかもしれない。

 我々の経験を広げるという目的の上で、これまで認められてきたよりも、はるかに重要な価値をもった人々がいる。 彼らは自分を犠牲にして自らの身体の一部を使用させ、 自分以外の知的存在から、テレパシーや彼らも知らない方法によって、受け取った伝言を伝えるのである。
 彼ら自身の人格は、一時的に休止あるいはトランス状態に入り、その間、身体と脳は活動を続けている。 かくして、彼らが前もって知ることのない事柄について伝言が伝達されるのだ。 しかしその後、その伝言は彼らの記憶には残らないと言ってもいいだろう。

 このように、他の知的存在との伝達機構として使われる者が、「霊媒」と呼ばれるのである。 霊媒能力にはさまざまな程度があり、 通常の完全な無意識状態と、常に結びついているわけではない。――あらゆる意味で。
 
 だが、そのすべての事例は、病理学上は「多重人格」と呼ばれる事例の、健全で有用な変種であるように見える。 一時的な支配における第二の人格は、でしゃばったりうるさかったりすることはなく、 よく抑制され、道理と便宜に従うと言える。 しかしそれは霊媒の通常の知性ではなく、傍受される記憶の層は別のものである。 霊媒にとって馴染み深いものがしばらく背景に引っ込み、他の者たちに知られている事実が前面に出てくる。
 
 こうして引き出された精神と記憶から、時折、肉体を持った人間を突き止めることができるが、 通常は物質や肉体を備えた身体は障害になるようだ。 せめて、伝達の知覚方法が、習慣的でありふれたものだったらよかったのだが。
 霊媒の有機体にとっては、実際、肉体のない知的存在によって支配されるほうが、より簡単であることがわかる。 その知的存在とは、物質からの分離または解離の完全な経過を通って行った者、 「死者」として一般に語られる者である。

 他のもっと高等な伝達方法――霊感と言われるもの――が存在するとしても、 いずれにせよ、このどちらかといえば平凡な霊媒の力の利用は、素朴なものである。 また、こうして受信された伝言を、直接体験して親しんでいる多くの人たちがいる。
 
 こうした事例で言及し、送信するために選ばれたことがらは、 たいがい、公共の重要性を持たないような、平凡な家庭のできごとにすぎない。 が、それを憶えている者の身元を立証するのには適している。 身元を証明できるのであれば、思い起こされた出来事の平凡さはどうでもいいことだ。
 重要な大事件は、それがほとんど実証できない場合でも、公共の知識であっても、 どちらもあまり役に立たない。 証拠となる手がかりと個人的特徴を与え、悲しみの中にある遺族が望むのは、 平凡で家庭的なことがらなのだ。

 霊媒能力には多くの程度と種類があるが、 トランス状態での談話は、そのもっとも完全な形のひとつである。
 しかし中には自動書記、または半覚醒状態での筆記ができる人々がいる。 彼らは、手だけしか身体を貸さず、習慣的な制御が不能になることがない。 その場合の手段は、ペンや鉛筆を持った手である。
 それが筋肉によって、普通のやりかたで動くことは疑いようがない。 だが伝言の内容に関する限り、その手を動かしている者の通常の精神には支配されないのだ。
 
 時には鉛筆は大きな木片に固定される。 それによって通常の筆記で使われるのと同じくらい筋肉の動きを単純にし、 小さくすることができる――「プランシェット」と呼ばれる方法である。
 時にはそういう木片は、文字を書くのではなく、書かれた文字を指し示すことができるよう組み立てられる。
 
 また時には、むしろもっと面倒ではあるのだが、物質的な器具による一層単純な形式が使われる。 伝言はむきだしの信号の形で届くのだ――手旗信号や、(モールス信号の)キーを押すように。 またモールス式符号を知らない人々の場合、 テーブルの傾きに向かってアルファベットを繰り返し読み上げ、 意図した文字のところで止める(テーブルが水平になって床を鳴らす)ことによって届く。
 このテーブルティルティング(※テーブルターニングとほぼ同じ)は、まじめな方法というより、蔑むべき古い娯楽のように見える。 単なるお遊びに向いていると思われるかもしれないが、 慎重さと節度をもってすれば、これですら明確な性質のコミュニケーションが可能な媒体を形づくるのだ。
 テーブルはあきらかに、ひとつの変形にすぎない。 同じく一片の木片が筋肉によって動かされるプランシェット、またはペンや鉛筆などの、不器用でかさばった変形である。

 思考を物理的な動きに変換する方式は無数にあり、そのどれを使うかはあまり重要ではない。 手、喉頭、腕の筋群、喉の筋群はすべて、 それらに結びついた脳と神経の機構を通じて作用する、精神に従順な物体の一部である。 精神がどうやってそれを動かすことができるのかは難問であるが、動かせるという事実は否定しがたい。
 
 どんな種類の伝達においても、その「不思議さ」の要因は、物体が符号に従って動かされることではなく、 知覚者(千里眼)の精神内で、別の者の思考が再生されることにある。 それは、談話でも筆記でも同じことだ。
 
 つまり超常的な例の「不思議さ」は、伝達する内容が、それを伝える者にとって異質なものであり、 そしてなにか、他の人物の特徴を持つところにある。 その人物は、身元を証明して慰めとなる伝言、 または、理解できる情報を送ることを真に願ってやまない者として、 そして一時的な使用を許されてこうした身体的組織と生理学的機構を使う者として、 生き生きと劇的に表現される。

 では、受信される伝言の種類について、簡単に述べさせてほしい。

 そのいくつかは「死後の世界」での事実と経験に――そこで送る生活の種類、環境、状態、 地球上の出来事への生き生きとした興味の持続、 そして問題点や、伝達の原理的説明の多少の拡張と結びついている。
 しかしこれらすべては、我々が「立証できない」と呼ぶ主題に属している。 つまり、我々がその主張をテストしたり、 その伝言が含む真実の量を確かめる方法を持たない。 そのため、慎重に扱われねばならない。
 
 その変わらぬ主張は、「死後の世界」の状況は伝達者たち自身が望んできたより、 もっとこの世界の状況に似ているということだ、と言えば十分である。
 彼らは花や動物、鳥や本、興味とあらゆる類の美について語る。 また、自分たちは我々よりもほんの少し多く知っているだけであり、 その性格や個性は今でも向上しつつあるとはいえ、実際変わっていないのだと断言する。
 なにか天上の(あるいは地獄の)ものへと突然変わってしまったのではなく、 以前と同じように彼ら自身であり、好みや傾向も違わないと言う。 しかし物質と結びついていたときよりも、いわれのない妨害や困難からは自由であり、 より幸福で、より向上の助けとなる状況下にある、と言うのだ。

 彼らはまた、周囲にあるものはまったく実体があってしっかりしており、 影のようにぼんやりとはかなく見えるのは、古い物質のもののほうだと言う。
 そして移住してくる者の手助けをするという、明らかな義務が割り当てられて救助するときや、 我々が彼らのことを考えたとき、または、 彼らが、あとに遺してきた愛する者と連絡をとるための自発的な努力をしたときに、 地球上のできごとをわずかに認識するようだ。
 
 彼らは友好的な感情と愛情に影響されやすい。 また、こちらにいたときよりも内気だったり、感情を示すのに用心深いということはない。 彼らは宇宙の他の領域にいるようには思えず、 この存在の法則にぴったりと結びつき、連結されている。
 
 長い進化の過程でやってきたように、以前彼らは物質の粒子を配列させることによって、 目に見える古い有機体を築き上げることに成功していた。
 それと同じ無意識の建設的能力は、新しい状況の下でもその仕事を続けることができるようだ。 そして、そこで利用可能な物質――仮にエーテルもあると想定できる――でできたもうひとつの身体、 または表現様式を構築する。
 
 この建設的な能力は、人間や動物だけでなく、たぶんすべての有機体生命にもあるものだろう。 そのため「エーテルの世界」と考え始められているところでの環境は、 この物質の領域で我々が馴染んでいる環境と、それほど違っている必要はない。 我々にとって物質の領域は現在非常に現実的であり、完全に我々を夢中にさせるものであり、 もっとも熱烈な賞賛を喚起するものであり、 そして未だ、我々がほとんど知らない真の構築様式によるものなのだ。

 しかしながら、すべてがそうであったとしても、届けられる最初の伝言は説明的な性質のものではない。 情報を与えようとして表現するものではなく、確信させようとするものなのだ。 失われた人々は今でも生き生きとして活動的であり、 さらに「彼らは存在する」と我々が思っている限り、彼らは幸福なのだ、と我々に実感させるために。 彼らは我々が悲しんでいれば悲嘆に暮れる。 しかし一方では、興味と有用さとある種の喜びに満ちた、彼らの新しい生活を見つけるのである。

 それゆえに、最初に届けられるのは親愛の情による伝言であり、 次に来るのが、彼らが意図した人々に対する小さな家庭的追憶である。 そうした伝言は、部外者に対しては多くの説明を要するため、 説得力の多くを失ってしまうが、時に非常に明確で満足すべきものだ。

 かわいがっていた動物やその名前、休日の旅行での出来事、 小さな偶然や意外な事故への言及など、これらすべては、 なにか身元を鑑別できるような伝言を考えようという努力がなされるときに、 突然記憶に浮かんでくるらしい。
 
 そして名称もまた、特に親密で内輪の性質のものなら、自発的によく与えられるのだ。 名称をはっきりと正確に掴むのはほとんどの霊媒にとってかなり難しく、 また証拠としての名称の重要性は、過大評価されやすいだろうけれども。
 なお、こういう予定された調査の最中の、突然の質問は混乱を招き、明晰さを曇らせがちである。 思索を中断させるのはどんなにたやすいことか、皆が必ず知っておくべきである。

 一部の交霊会同席者たちの、過度の心配は決して役に立たない。 平静と落ち着きこそが有用である。
 とはいえ、初期の伝言は、遺族の生活に影を落とすなんらかの心配、疑い、誤解、悩みから、 その精神を解放したいという激しい欲求によって、しばしば刺激されることが明らかに感じられる。
 他界した友人たちはそういうことには格別に敏感らしく、 そうやって打ちのめされていると彼らが認めた特定の人に慰めを届けようと、 しばしば非常に精力的な努力をする。

 どのようにして彼らがそれを知るのかは、非常に難しい問題だと思えるだろう。 だがもちろん、こうしたことはこちらの生活でもぼんやりと感じられる。 そして、簡単に釈明できる機会がなくなったとき、それらはより顕著になり、より後悔を呼び起こすのだ。
 後悔というものは、むしろ、肉体を離れた精神状態の顕著な特徴だと判断するべきである――正当な理由があるのなら。 その気持ちは、我々が眠れない夜によく感じるものと似通っているかもしれない。

 またテレパシーの可能性も同様である。 いかにして他の精神に、根強い性格の精神的印象を与え得るのか――肉体を離れてさえ――について言えば、 この種の感覚のうちに別の方法が備わっていて、喚起されるということはありそうだ。
 
 とにかく方法はどうあれ、遺族の感情の認知は疑いようのない事実である。 また、こうした場合に受け取られる通信の大きな利点のひとつは、 ベールの両側にいる者たちの心にもたらされる、解放と慰めである。
 青年期の活力に満ちながらも前途をもぎ取られた若者たちが、 その愛する者たちが失った者をあまりにも嘆きすぎて、残された人生を害なっていると知ったなら、 満ち足りて安らいでいるということはありそうもない。
 
 彼らは、自分たちが通信する力に懐疑的だろうか? 多くの場合、その通りである。 だが友人たちの力や、他の方法でその可能性を認識するようになれば、 まだこちらにいる者のなかに、通信する希望を目覚めさせるべく極力努めるだろう。 そうして遅かれ早かれ、何らかの形での交流を――とても主観的な性質かもしれないが――果たすことができるのだ。

 ある程度知られた著書「レイモンド、生と死」の中で、私は、 個人的な主体性、記憶、愛情、性格が、死を越えて存続することを証明する伝言の例を挙げた。
 しかしなるほど、レイモンドと他の者とによってなされた家族の会話の例を挙げはしたが、 これらは全体が考察され取り扱われねばならないものである。 背景から一部分を選り出し、それらを引用するのはフェアではないか、あるいは役に立たない。

 こうした会話がそう頻繁にあったり、ずっと継続して行われたりする必要はない。 いったん死の壁の両側の者たちが、不滅の関心と愛情とに完全に目覚めたならば、 わずかな離別の年月には耐えられるものだ。 そしてあちら側であろうと、こちら側であろうと、人生の主要な仕事に参加できるのだ。

 現在の地上の存在の価値と重要性は、他の側にいる我々の友人たちによって完全に認められている。 たまの伝達という特権に対しては、わずかな見返りと、 また最近死に赴いた非常に多くの高貴で献身的な魂の、特にありがたくもない認識しかないだろう。
 彼らを哀悼することは――または、交流を熱望することさえも――彼らのエネルギーを奪うか、 または完全な活動を妨げると見なされる。 その活動は、現段階に存在する我々に対して行うことが可能な、あらゆる種類の奉仕なのだが。

 最後に、もし他の知性が存在するのなら、なぜ我々はずっと彼らを知らなかったのか、と尋ねられるかもしれない。 しかし、確かに多くの千里眼たち、多くの聖人たちは彼らのことを知り、交流し、その力を感じてきたのだ。 詩人たちもまた、霊感を得てきた。
 
 さらに、彼らの存在を認める傾向にある者たちでさえ、 その活動を我々に語ることはない、という不思議が時々明らかになる。 環境がどんなものであるかが理解できるというものだ。
 
 したがってその問いの答えは、 第一に、一般に広く知られているよりも彼らは我々に語ってきた、というものであり、 第二に、それを語ることは明らかに簡単ではないというものである。 ゆえに私は、子供っぽい寓話でこの章を締めくくるとしよう。


【ヒラメと鳥】

 1匹のヒラメが日向ぼっこをしようと、スコットランドの入り江の端まで、バタバタと進んで行った。
 たまたま、ツバメがあちらこちらと水をかすめて行き交った。 魚はかすかに見たものに驚いて、ぽかんと口を開けて見とれながら呟いた。
「そうか、やっぱり、この上に生きものがいるのか。 僕はいつもそうじゃないかと思っていたんだ。前から影やその兆しはあったし、 自由に泳ぐ連中は何かほのめかしていたし。
 だけどまったく奇抜で信じられない。地面にしっかり貼り付いているほうが安全だ。 とにかく泥と砂を確かめることはできるんだし、そのほかは想像の産物だ」
 そのとき、またツバメがすいっとやってきたので、彼は尋ねた。
「君は、なんだ? ヒレはあるの?」

 ツバメは短く答えた。
「僕たちは泳がない、飛ぶ」
そして人がいいことに、まるで言外の質問に応じるかのように付け加えた。
「実際ほとんど同じことだ、ただ、もっと進んでいて、速くて、快適だ。 君たちが夢にも思わないような、羽があるのさ。 地上高く舞い上がって、とても遠くまで旅して行ける。 君たちのうち自由に泳ぐものも、知るべきものの半分も知らない」

 魚は驚いてしばらく黙っていたが、すぐにいつもの平静を取り戻した。 そしてためらうことなく、饒舌に答え始めた。
「こりゃすごい。君たちが存在するなんて信じていなかったよ、本当に。 そう言ってる者も少しはいるけれど。そういう者は飛べるんだ、すくなくとも短時間は。 そして、飛んでる間に他の生き物をちらっと見たと言ってた。 もちろん信じられてはいないけど。
 あの連中は、そっちに上がったときには実際に前が見えるんだそうだよ。 そうやって、時折僕らを不安にさせる、暗い船体が来るのを予告したりするんだけど、 よく間違うんだ。
 僕たちとしては、飛ぶことは控えるべきだと言いたいね。騙されるつもりはないな」

 ツバメはこの最後の告白を聞いて一瞬ホバリングすると、上をちらっと見て言った。
「君は騙されないようにうまくやってるんだろうね、だけど、ごまかしは一種類だけじゃないかもしれないよ。 自分自身に対するごまかしには気をつけているかい? 君はすべての存在の栄光のうち、ごくわずかしか知らない」

「君はすべてを知っているのか?」
のたうつものは頭を上げ、水の外に出そうとして息を詰まらせながら答えた。
「そっちで自由に飛んでいれば、なにもかもはっきりするのか? 君の世界が、 実際どんなふうなのか教えてくれ」

「教えられない」ツバメは答えた。
「君にはわからないだろう。君の世界に似ているけれど、ただ、いっそうきれいなんだ。
 君にも、きれいなものがそっちにあるだろう。探したり、自由に泳ぐものたちに訊いたりすれば。 彼らは輝く石や、海草や、貝のことを話してくれるよ。それに君自身の鱗だって美しい。
 だが僕らは――僕らは木と花と果物を見、神々しい山々を飛び越え、 驟雨と陽光、虹と露に喜び、納屋や教会に巣をかける。僕らは…」

「何のことを言ってるのか、わからないよ」魚は遮った。
「教会ってなんだい?」

「ああ! それは僕の知識を越えている」とツバメは言った。
「僕たちにもわからないことはたくさんある。 どうしてそれが建っているのかは教えてあげられない。 納屋と似たようなものだけど、もっと蛇腹や棚があって、とにかく違うんだよ。 僕らのものより高い世界の眺めを表しているらしいんだけど」

「やれやれ!」
ツバメの声が次第に静寂の中に消えていったとき、のたうつものは独り言を言った。
「あいつ、自分の周りがどんなふうなのか言えなかった。 なのに、もっと理解できないところまであれこれ考えてる。 だめだ! 全体、ぼんやりして限界がなさすぎる。 この僕らの棲みかの上になにかがあるなんて、信じていなくて正解だったんだ。
 もし他のやつに、あのトビウオ達は、なにか本当のことを言ってたんだって話したら、笑われるだろうな。 何も言わないほうがいい。 だけど――ああ、なんだか僕も思い出してきた。 子供の頃は、もっと自由に泳いだもんだった…。
 ああ! そんな過去の輝きは消えたんだ。僕はいつもの日の光で満足しなけりゃ」
そう言うと、彼はのたうって帰りはじめた。そして自分の泥の中に、もう一度落ち着いたのだった。

 だが彼の経験がすべて失われたわけではなかった。 仲間たちの軽蔑にもかかわらず、彼は時折、そのことについて何か口走ってしまうのを抑えることができなかった。 そして以前よりも、もっと無知を自覚したが、実際、より幸福だと感じていた。
 とはいえ、彼はずっと不思議に思っていたのである。 どうして鳥は上の世界の本質について、もっとはっきり彼に教えることができなかったのだろうと。

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